平成20年12月1日月曜日

伊勢エビと弓ヶ浜

暖かい所で伊勢エビが食べられるということで伊豆に行きました。伊豆半島を先の方まで行くにはつまるところ海沿いか、中央部の背骨をたどるしか無いのですが、今回は背骨コースです。東名を降りて修善寺に出ます。途中、河津のバガテル公園に寄りました。フランスの同名の公園を模した姉妹園とのことで、入り口にはフランス国旗が掲げられています。
陽が傾きかけていて、そんなとき日陰のバラは浮き上がるような印象になって、この花の特徴が強調されますね。変種も多いから作り出したらのめりこんでしまうでしょう。W.S.チャーチルも絵を描くことのほかに、確かバラ作りが好きだったのではないでしょうか。                             


伊豆半島の先端近くにあるのが弓ヶ浜。夏休みの始まる前に来ると人影も少なく、浜辺も荒れておらず、初夏の日差しに白砂が輝いて実にきれいなところです。浜の緩やかなカーブが気に入っています。この写真を撮っている後ろは松林になっています。朝、漁に出た船が戻ると村内放送が入ります。すると、新鮮な魚を求めて土地の人が集まります。観光地なのだけれども観光地ではない部分も見えて、そんなところも好きです。
 宿は国民休暇村。夕食はたっぷりで、伊勢エビのお造りが一匹ずつ付きます。甘みがあって堪能できますが、刺身として食べてしまうと係りの人はそれを下げてしまい、食事が終わるころ今度は味噌汁として出してくれます。
海老のダシがよく出ていて、大きなものなので殻の中身もたくさんあって楽しめます。後は露天風呂。北海道で吹雪の中の露天風呂を体験したことがありますが、天井が無いとどうしてこんなに開放感があるのでしょうか。朝食はバイキング。一人ひとりにノリ、納豆、干物とご飯をセットする方式はずいぶんと少数派になった気がします。バイキングの方が種類も多いし合理的ですね。どこに行ったときでも朝食のお粥はお気に入りです。毎日食べればいいじゃないかということなのですが、ウィークデーの自宅の朝食では忙しくて無理です。
I enjoyed smorgasbord in the morning  といったところでしょうか。

平成20年11月20日木曜日

黒部から室堂へ (その2)

室堂までは地上ケーブルと空中ケーブルを乗りつぎます。これこそ快晴と言うべき、将に快晴。陽の光で目を開けられないほどでした。高度を増していくと一気に眺望が開け、周囲から感嘆の声が上がります。昼近くでもあったので途中下車して、日陰をウロウロと探して昼食。



こういった場所はどこでもそうなのですが記念写真を後日送付する商いがあって、団体客は自分の運命も知らずに屠場につれてこられた鶏のように、華やいで整列します。カメラ係のお兄さんが一万回も繰り返したであろう香気の失せたジョークを感慨もなくしゃべくると、そのつど観光客がどっと沸く。見ていると、その落差のほうがよっぽどおかしい。室堂は混んでいました。なるほど、ここから日本の屋根に向かうのだなと山々を眺めて堪能して来ました。

黒部から室堂へ (その1)

 10月中旬、黒部峡谷と室堂、そして美女平へと抜けるコースをたどりました。快晴という言葉以外に形容のしようのない、まさに快晴でした。黒部ダムは有名なので写真でも何度も見ていましたが、風や陽の光の中で見るのは、いわば体で感じることなので全く別の印象を受けるものです。
 J.P.サルトルとS.ボーヴォワールが来日したときに霧雨の降る明治神宮を案内され、この美しさは体験しなければわからないと何度もつぶやいていたそうな。同じことだったのでしょう。

幸いにダムは放水されていました。水音がまったく聞こえないのは、眼前に見えるのにそれほど距離があるということで、規模の雄大さにうたれます。このダムの工事の困難さは広く喧伝されていますが、初期のころの記録映画では熊が一瞬にして激流に飲まれていくシーンがありました。人をまったく寄せつけない厳しい自然と、それにもかかわらず挑戦する人知との長い厳しい戦いは映画化されるだけのものを持っています。

  黒部ダムから室堂へ行くケーブルカーの始発駅まではバスです。それほどの距離ではないもののずっとトンネルの中を走ります。途中、大破砕帯を通ります。映画「黒部の太陽」で、突然、トンネル内に大出水するシーンがありましたがその場所です。
立山連峰の伏流水を抜きながら地層のない岩盤を薬剤で固め、命の上に命を塗り重ねるようにして数センチ単位で進んだであろう部分。バスではほんの短い時間なので想像力が必要なのだと強く思いました。
  

平成20年9月25日木曜日

My favorite walking course.



 お気に入りのウォーキングコースがあります。ただ、毎日いけるわけではありません。ここの江戸川土手まで家から2kmはあるから、Week Dayは来る時間がありません。休日で雨の降らない日。更に言うと、あまり陽射しの強くない日。だから、なかなかベストの日はありません。でもだからこそ、歩ける日は本当に嬉しい。 
 大きな河なので、野球場、サッカーグラウンドが次々に続きます。彼方の対岸はゴルフ場になっています。緩やかに湾曲していて、土手に立つと3km先まで見通せるのです。


  夕暮れ、ずっと下流のほうまで行くと白く塗られたボートがたくさん係留されていて、ユリカモメが群舞しています。空は茜色から淡い群青に染まっていく秋の雲。遠い記憶の中でいつか見たような大きな太陽が沈んでいきます。混じりけのない朱色を見ることができます。
 これだけでも偉大なる自然なのに、あの朱色とは巨大なガス体で、あの光も中心部の核融合反応に由来していると思えば、自分が今まさに宇宙の神秘に対峙しているという思いに打たれます。
 そして家々に灯がともり、勤勉な主婦が夕餉の支度をしているであろう生活の営みが感じられる時、宗教的でもないのに宗教的な気持ちにならざるを得ません。
人々に歓びを、そして世界に平和を。

平成20年9月18日木曜日

ランニングマシーン

 オリンピック選手は自分の体をコントロールするプロで、それとは及びもつかないことですが面白い体験をしています。
近くにジムがあって、時々行きます。ストレッチを十分にして、十分に時間をかけすぎるからウォームアップを過ぎてクールダウンになってしまいます。だから次は自転車に10分ほど乗って体を温めてからウェイトトレーニングに入ります。マシンはあれこれあるから、使えるところをまわって、体の上から下まで一通り。上腕二頭筋だの脊柱起立筋だの、理屈が先にたちすぎるのは僕の生来の悪弊です。このあとランニングマシンというのがルーティンになっています。ランニングは一部で、歩きつづける方が多いです。シャワーもあるから結構な爽快感と共に帰るわけです。
 ジムのほかに野外を歩くのも好きで、お気に入りのコースがあります。利根川の大きな支流の広々とした緑の河原を見ながら土手に沿って往復6~8キロの行程です。歩いたり走ったりします。ランニングマシンでは8キロは走れません。走ったとしてもまるでネズミになったようでもあり苦痛です。
 ところが広々した河原を見ながら歩くと、苦もなくこなしてしまいます。さやさやと鳴る草の上を歩くと、汗でびっしょりになるのが嬉しいという気になります。
 勿論、自然の中にシャワーなんてありませんけれど、風に吹かれて体が乾くのが爽快ですね。結局、どうしようと人工的な環境は自然の大きさにはかなわないのです。
 そんなこともあって、近頃は野外のウォーキングからとても健康的な楽しみを見出しています。歩いていると、同好の士が多いことにも気づきました。同じ楽しみを見出しているのでしょうね。

平成20年8月25日月曜日

演劇の魅力 仲代達矢さんの意見

 何人か、演劇にのめりこむ人が身近に居ました。みんな、プロにはならなかったのですが、そのように人をひきつける何物かが何であるのかは傍観者である私にも興味がありました。役者は三日やったらやめられない、という言葉は何を意味しているのだろう? 仲代達矢さんが自身の経験に基づいて語った文章がありました。以下がそれです。

「普通の人とは違う人間の野性を生きる」 
 これは、亡き妻宮崎恭子が若い俳優たちに語りかけた言葉で、「俳優の仕事は、人間の野性、あるいは本能を描くこと。それに知が絡み合って人間を演じていく」、そういう意味です。私たちの日々の営みは、建前とか社会性でつづられていくものだし、それが秩序を作っていくのですが、人間には本音があり本能がある。深くて複雑な人間を見つめながら、こんな生き方もあると表現していくのが俳優の仕事だと思います。 

 新劇の世界は、一に作者、二に演出家、三番目にやっと俳優という位置づけになっているような気がしていますが、どんなにすぐれた脚本があっても、それを俳優が肉体化しなければとても成立しません。ですから、それに応えられるような格の高い演技が要求されるでしょう。

 私は映画の仕事にも多く携わっていますが、ここでも監督などが、作ろうとする一本の作品のことを考えてオーディションをし、役柄に沿う人を選ぶ。昨日まで役者としての経験もない素人でも任に合えば使い、あとは放り捨てるような現状です。それはプロとアマチュアの差を認めていないということです。 私が考える役者というのは、どんな商売でもそうであるように、何らかの修業を経て、俳優として、また人間としての意識を持ち、お客さんを感動させ、人間とは何か、人間の命とはどういうものかを常に自分に問い、それを表現する志と技を磨いていく存在なのです。

 若い頃の私は、とにかくうまくなりたいと思って世界中の演劇書を読みあさりましたが、なかなか俳優の感覚にピンとくるような技術指導書はありませんでした。 ある日寄席を兄に行った時のことです。紙切り芸の名人、初代林家正楽さんの舞台で「あ、これだ」とひらめくものがありました。正楽さんはお客さんの目の前で和紙をはさみで切っていく。仕上がったら扇子を持ってパパーツとあおぐのですが、和紙が本物の蝶のように生き生きと舞うのです。ここには俳優という商売の、「表現の秘」があると強く感じました。 

 また、俳優の魅力とは何かについても懸命に考えました。その人の魅力にお客さんはついてくる。その事実は分かっていても、身につける方法はどのような指導書にも書かれていないのですが、30歳の頃にシャンソン歌手イブ・モンタンの歌を聞いたことがあります。衣装は黒いシャツを着ているだけ。しかし「枯葉」を歌い始めた瞬間にピンとくる魅力を感じたのです。口では説明できない、どうすれば手に入るのか見当もつかない。でも、その魅力というものがなければ人を引きつけることができないと痛感しました。

 それは今でも分からないし、明確に人に教えることも難しいままなのです。 つまり俳優は自分で、日々人間へのアンテナを張り続けていくしかないのですね。でも、簡単ではないからこそ面白いのではないですか

平成20年7月23日水曜日

秋葉原の通り魔事件

 秋葉原の無差別差殺傷事件について、京都大学の加藤尚武先生が書かれた記事が目につきました。どこか根深いところで言い当てていると思われました。以下転載です。

秋葉原事件と高校教育の陥穽
《自尊心を欠く犯罪》 
6月8日の通り魔殺人事件は7人の命を奪い、10人の負傷者を出すという悲惨な結果を生み出した。「誰でもいいから殺す」という無差別殺人の場合、動機の解明や犯行時の精神状態を明らかにして刑事事件としての立証をしても、そもそも刑事罰の有効性が成り立たないので、犯罪の一般予防という観点から見ると刑罰以外の対処をも視野に入れなくてはならない。
 犯人(25歳)の生い立ちや性格についても十分な調査をする必要があるが、実際には、生い立ちを調べることは両親や兄弟のプライバシー保護と抵触するし、そのような調査をする権限をもつ公的な機関が存在しない。 非行をする少年や若い犯罪者について、規範やルールの認識が欠けているという判断を下す人が多いが、たいていの場合非行や犯罪には「悪いことだと分かっているからこそ、あえて行う」という挑戦的態度が見られる。 秋葉原の通り魔殺人の犯人に関しても、世間から激しい非難を浴びるような行為をわざと選んだように思われる。彼の動機に、親に対する復讐(ふくしゅう)という要素があったと指摘する人が多い。ほとんど自殺に限りなく近い形で、自分を破滅させるという行為には、何よりもまず「自分を大切に思う気持ち」(自己評価、自尊心)が欠けている。若い犯罪者に欠けているのは、たいていの場合、規範意識ではなくて、自尊心である。

 ≪共同選果場化した現場≫ 
日本の県立高校は、工業・農業・商業という実業高校は統廃合によって、普通制高校に変わっていく、男女別学が男女共学に変わっていくという過程を通じて、特色のはっきり分からない普通制高等学校が並立しているという状況になっている。 学校の違いは、入試の点数によって、明確に分かれる。AクラスからEクラスぐらいまでに分かれる。エリートから外れた高校に通う者が3年間に身につけるものは、まずEクラスとか、Dクラスとかのレッテルを張られているという屈辱感に耐えることである。 Eクラスとか、Dクラスの高校では、雨の日の朝は生徒の表情が少し明るいといわれる。社会的なレッテルをあらわす制服をレインコートで包むことが許されるからだ。 高等学校の共同選果場体制化は、少子化による学校統廃合と受験の圧力という教育に固有の事情から生まれていったのだが、それが現在では、若者の就職先が、正規雇用型と派遣型に分かれるという社会的な変化にぴったりはめ込まれたようになっている。 エリート校の受験体制に乗り込むよりほかに、自分の努力によって自分の未来を切り開く余地が実際にほとんど存在しないことに多くの若者は気づいている。
 エリート校に進めば、そこは大学受験のためのもっとも効率のよい修練場である。たとえば歴史の教科書でカントという人物名を見たら、カントについての3行程度の記述を完全に記憶しなくてはならない。カントの著作を読んでみるというような無駄は許されない。彼らが大学に入ってきたとき、「受験に必要な知識」という型にはまった知識以外には、脳の中には何もない状態になっている。

≪落ちてはならぬコンベヤー≫ 
エリート校の出身者が、大学院に進むまでに受験後遺症を払拭(ふっしょく)して、のびのびとした独創的な発想力を身につけるのは難しい。秀才ではあるが、研究者としては二流以下の若者が大学院にあふれかえっている。 秋葉原の殺人犯は、絶対に落ちてはならないコンベヤーベルトから落ちたのだ。そして彼の攻撃的な精神にはたえられないDクラス、Eクラスの屈辱を背負って生きる以外に自分の可能性がないことに直面していた。彼の犯行は、共同選果場体制から、たまたま落ちこぼれたいびつな林檎(りんご)の悲劇だったのではないだろうか。 高等学校の共同選果場体制は、日本の若者から気力と創造力を奪っている。高等学校は、自分を大事にするという気持ちを他人と共有し合うこと、人間としての深さ、他人に対処する姿勢を芸術や文化の深さに触れることで養うなど、人間としての成長の期間でなければならないのに、選別のためのたんなるコンベヤーベルトと化している。 
 その責任の一端は、大学の側が生み出してきた入試体制そのものにある。現行の入試では1点でも多くの点数をとれば有利になる。一定以上の点数をとれば合格の必要条件を満たすという方式も検討すべきだ。 将来の日本が、人材の豊かさを誇ることができるようにするためには、高等学校の共同選果場体制を解消するという課題に取り組まなくてはならない。

平成20年7月8日火曜日

桐野夏生さん

作家である桐野夏生さんが、自分の仕事と生き方について書いた記事を見つけました。自分の人生を納得のいく形で生きるためには、時と所が変わっても各自が経なければならない過程なのかもしれません。抜粋です。(2008年7月6日、朝日新聞)

 私たちの世代の女性は、今からは想像もできないほどの就職難に直面していました。しかも大学を出たのは石油ショックの翌年。友人のほとんどは、就職ができても結婚を機に辞め、家庭の主婦になっています。私自身は子供の頃から、いろいろな問題を考えるのが好きで、いずれは新聞記者になりたい、などと漠然と思っていましたが、女性の私には高すぎるハードルでした。 大学時代はベトナム戦争もあり、全共闘運動、ヒッピームーブメントの盛んな頃でしたから、「この世の中はおかしい」と強く感じていました。就職することが、現実に負けるような気がしましたし、権力におもねることではないか、とも考えていたのです。
 大学を出て、いくつか小さな会社に勤めましたが、将来の展望も持てないままに辞めてしまい、不満を抱えつつも、自分はアウトサイダーになるしかないと決心しました。 出版社の試験も受けたことがあります。でも女性誌枠の編集募集で、一般教養の試験ではなく、洋裁や料理の知識が求められた時代です。私は家庭科音痴だったので、理不尽だと憤慨もしましたが仕方ない(笑い)。書くのが好きだったのでライターの仕事もやりました。でも、膨らませて、はら話を作るのは得意でも、要点を抽出するのが意外と苦手で、あまり向いていなかったように思います。 しかし、シナリオ教室に通うようになった後、最初の小説を書いた時に、とても驚いたものです。楽しいし、いくらでもアイデアが湧く。自由に虚構を作る方が向いていることは、自分でも意外でした。自分が作り出した世界に酔って放心できるし、ライターズハイも体験して、これは天職だ、自分の仕事にしていきたい、と思ったのです。経済的に自立できるのはまだずっと先でしたけど、ともかく書きたいことを書き、自分自身が楽しく酔える仕事をしようと決めました。
 就職で挫折し、社会から要らないと弾かれた気分が強かったがゆえに、自分で将来を手探りしなくてはならなかったことが、自分を突き詰めることになったのだと思います。

平成20年5月10日土曜日

夭折の詩人 立原道造


立原道造記念館。
ここの存在は知っていたのですが初めて来ました。
2Fと3Fが展示室になっていて、実際に立原道造が使っていた机がありました。
他の記念館などでも同じ経験をしたことなのですが、主を失い長く使われなくなると全てが小さく質素に感じられます。何であっても、優れた作品を生み出すのにマホガニーの大テーブルはいらないんですね。

立原は洋燈が好きだったということで、愛用のそれを持っている写真もありました。左の洋燈です。夕暮れ、洋燈をともしてその下で安らいだら、それはもうそのまま立原道造の世界になりますね。

ずっと前の夏休みのこと。
中央図書館の古色蒼然としたいかめしい石造り。夏休みなのに、学生たちが半分近くも席を埋めて勉強している。重厚であったであろう内装も、時を経てお粗末さだけが浮きあがっていた。きしむ椅子、前席と区切るための衝立。冷房がないものだから横に大きな扇風機がいくつも並び、生温かい風を送っていた。開け放した窓からは蝉しぐれ。
僕にはすることがきっとたくさんあったはずだ。でもなぜか、立原や文芸評論や抒情詩など、自分のフィールドとはまるで関係のないものばかりを読んでいた。夕暮れ近くに外に出ると、少し低地になったグラウンドの周りに大学や付属の建物が見え、空気の汚い都会のことだ、白茶けた空に入道雲が何層にも重なって見えた。毎日そのようにしてすごした夏が、今でも鮮明に記憶に残っている。

立原のノートがありました。
小学校時代から文字を正確に書く少年だったんですね。
凸レンズの作図もありました。焦点の外側にロウソクを置いて、その倒立実像の図です。炎の先端からだけではなく、ロウソクの肩の部分からも光線を引いています。当時はそのような教科書だったのか、あるいは立原だけがそのようにしたものか分かりませんが。
赤いセロファンを通った光はどうして赤いのかという質問に対する立原の答が書いてあって、他の波長の光を通さないからだときちんと表現しています。
立原というと詩と結びつくけれど、理系の人ですものね。立原の使ったカラスグチなどの製図器具もありましたけれど、今ならコンピュータとCADで自在に描くのでしょうね。立原が長命でこんなツールを使ったなら、そして丹下健三さんと競いあったならなどと想像しました。

立原の文章。
「僕のなかには優しい小鳥が住んでゐます。ピンク色の微笑や草よりもつよいにほひのする髪の毛を持ってゐて、かの女は僕によいものを与へ、またよいものを奪ひ去って行きます。」 彼と人生を託すはずだった人、水戸部アサイ。二人だけで交わした婚約というのも彼の詩にふさわしい。立原の死後、十九才のアサイは立原をめぐる知己達のもとから姿を消す。後に信濃追分の駅に佇むアサイの姿が見られたという。

人は、彼女が彼の思い出の中に生きていくことを望むのかもしれない。でもそれはこちらの勝手な思いであって、生身の人へのいたわりに欠けている。一冊の恋愛小説を残したからといって、ヒーローやヒロインの実際の人生がそこで終るわけではない。僕たちはその美しい作品に感謝し、そして彼らの幸せを望めばいいのだと思う。

平成20年5月7日水曜日

I love Ochanomizu. (4)


JR御茶ノ水駅の西口を出てそのまま緩やかな坂を南に3分。明大を過ぎるとほぼ直交するように靖国通りにぶつかり、ここが駿河台下。右手に三省堂書店の高いビル。三省堂書店の南側から、靖国通りとほぼ平行して始まるのがすずらん通り。すずらん通りを50メートルくらい進んだ左手に、この写真の「東京堂書店」があります。
何でご紹介したかというと、本の選び方がとても良いのです。1Fは一般雑誌や文庫だから個性を特別に感じるということはないのですが、2F以上に上がると各分野ごとに、自分が読みたかったのはこんな本なんだというものがあります。評論家の立花隆さんが、目利きが本をそろえているとどこかに書いていましたが同感です。東京堂書店は以前、上のほうの事務階までが書籍売り場だったのです。ソファも置いてあり、座って読んだりもしていました。それが学校帰りの生徒の使い方が良くなかったのか、あるいは他の理由なのか、この階は事務用になってしまいました。5月中旬、数日閉鎖して店内を変えるとのこと。再開を楽しみにしています。5月31日はすずらん祭りがあり、この通りが賑やかになります。もちろん僕も行きます。

平成20年5月2日金曜日

I love Ochanomizu. (3)




文化学院から南、日大理工と明大の間を下りていきます。右側は明大ですが以前は郵政省(?)職員宿舎だったものを大学が買いとりました。イチョウの大木が並んでいて、秋になると銀杏がたくさん落ちて足元が滑ります。下りると錦華公園。山の上ホテルの西側になります。ここから明大のリバティタワーを撮ったものが最初の写真です。上の階にある食堂は学食の域を超えているとか。まだ未経験なのですが、時間が合うなら行ってみたい所です。

公園というのは勝ち組負け組がはっきりしていて、まったく寂れたところからいつも賑わうところまで様々ですが、ここは必ず誰かがいます。
錦華公園の南側に隣接するのがお茶の水幼稚園と御茶の水小学校です。お茶の水小学校の敷地内には夏目漱石の碑が建っています。この小学校の卒業生なんですね。碑を見ると、「我輩は猫である・・・」とあった後、「錦華に学ぶ」とあります。

以前は、錦華小学校という名前でした。でも都市部の空洞化と少子化の影響で、近隣の小学校を廃校にして錦華小学校に統合することになりました。この時に、歴史のある錦華の名前を残したいと地元では相当に運動したのですが、錦華小学校だけ校名を残すのでは吸収合併になってしまうということで、お茶の水小学校となりました。三方一両損のような感じで、フェアということではそうなのでしょうけれど、歴史が失われていく感じもします。

I love Ochanomizu. (2)



続いて、文化学院です。
ニコライ堂からは西になりますが、やはり徒歩3分くらいです。御茶ノ水駅西口を南北に走るのが明大通りで、駅から1分ほど南下して明治大学にぶつかったらそこを右折です。最初が少し上り坂の細い並木道でとちの木通りと名づけられています。両側にマロニエの並木が続きます。5月の晴れわたった日に木陰を歩くとこの若葉が陽に透かされて、それはもう素晴しいです。

途中、左手にLEMONというイタリア料理の店があり、大きなブランコがおいてあります。下校途中の小学生が乗って遊んで、注意されたりします。
右手が文化学院になります。正門がいかにも伝統を感じさせますね。正門は残っていますが後方は近代的なビルに変わりました。低層は放送局で、その上が文化学園の校舎だそうです。文化文芸に力を入れていた文化学院ですが、時代の趨勢で放送映画総合芸術へと軌道を少し変えているようです。

文化学院の歴代講師って、文化人オンパレードといった趣があって多士済々です。まず、学監が与謝野寛、晶子です。ざっと挙げると、吉野作造 寺田寅彦 清水幾太郎 三木清   田中美知太郎 和辻哲郎 山田耕筰 有島生馬 高階秀爾 東郷青児 阿部次郎 有島武郎 萩原朔太郎 北原白秋 高浜虚子 川端康成 芥川龍之介 横光利一 小林秀雄 学校側の意気込みを感じます。

文化学院から西にはアテネフランセが見えます。ここからの眺めは、季節によって日によってさまざまな変化があって楽しめます。私は日曜日など人のいない時の、ひっそりとした普段と違う雰囲気が好きです。ここらあたり一帯は、フランスと雰囲気が似ているとよく言われます。
その理由のひとつとして、電柱と電線がないことが大いに関係していると思います。たしかに、電線が空を切らなければどこだってとてもすばらしい眺めになりますよね。でも電力線を地下に敷設して、美しい風景を楽しむための公費投入なんてありえませんよね。

I love Ochanomizu. (1)

大好きな街の案内をしますね。先ずは、御茶ノ水です。住人であったことはないのですが知人が何人もいるし、懐かしくて居るだけでほっとするすばらしい街ですよ。

最初は、ニコライ堂です。
JR御茶ノ水駅には2箇所の出口がありますが、秋葉原寄りで出ます。そのまま道路に沿ってでもいいし、少し駅中央に寄ってから南進しても同じですが、所要時間1分です。

ニコライ堂の正式名称は東京復活大聖堂教会というそうです。ニコライ堂の名称は幕末にロシアから来日して日本ハリストス正教会を樹立したニコライ大主教に由来するとのこと。正教会は東ローマ帝国起源のキリスト教教会です。明治17年に起工し、明治24年完成。当時日本には専門の技師がいなかったので、ロシアの工科大学の方が設計し英国人が工事を監督したもので、聖堂の高さは35メートル、建坪318坪、壁の厚さは1メートルないし1メートル63センチもあるそうです。建築様式はビザンチン式とよばれ、西欧のゴシック式の教会堂と違って中央にドームがあります。外部から見てもとても壮麗ですね。ニコライ堂の鐘楼には大小6つの鐘があります。ロシアにはこの建築様式が多いですね。宗教が同じということでしょうか。日本の重要文化財は木造が多いのですが、ここは石造の重要文化財です。1992年からおよそ9年の歳月を費やして修復が行われました。写真に見える十字架もそのときに修復されたものです。中に入ったことがないのですが、聖堂のなかのシャンデリヤなども実に美しくなったそうです。
昔、英語の講座が開講されていました。私もせっせと通った覚えがあります。

平成20年4月18日金曜日

J.J.ルソーの 「告白」

絵を描くときに、ルノワールのように暖色でやわらかく描くこともできる。ルソーのこの「告白」は、鉄筆でキャンバスを引っかくような趣を感じる。真実なのだろうけれど、それが楽しいかどうかは別の問題だ。

「私は病弱として生まれた。それが母の命を奪った。私の誕生は私の最初の不幸であった。」とても印象的な書き方だ。ここで感じたのは私への重視だ。興味の関心は、不幸な母よりもこの私なのだ。

「私は考える前に感じた。何も理解しなかったが、何もかも感じていた。」 こういうことってあるのかもしれない。でも後年になって、自分でそう感じていたに違いないと考えているだけなのかもしれない。

「K婦人は私が知るかぎり最もやかましいお婆さんだった。彼女がお説教を聴きにいっている間に、彼女の鍋の中に小便をしたのを思い出す。」
元気でいたずらっ子の少年なら、きっとこの程度の悪戯はするよね。自伝の面白さって、こんなふうに生身の人間を身近に感じられるところにあるよね。

「私ほど××な者はないだろう」という言葉がとっても多いな。それほど自意識が強かったということなのだろうか。近代的自我の云々といわれる所以なのかもしれない。

ルソーは、自分にかかわりのある人をきれいに二分する。つまり、味方と敵だ。あるいは、善人と悪人だ。わかりやすいけれど、実際には悪意をふくんだ味方とか、友情を感じさせる敵なんてのも言葉の遊びではなくてあるんじゃないか。

これを読んで感じたことは、自伝というのは、事実が書かれているということではなくて、書かれている事実があるということだ。
自伝というひとつの虚構。でもだからといって、何もかも真実はないなどと言う気持ちはさらさらない。どこまでありのままを表現しうるのだろうか。言葉の可能性の前に、書き手の気持ちのありようがその作品の基底音を決定してしまうのだろう。

平成20年4月11日金曜日

ユダヤ人

「シンドラーのリスト」を観てから、何でユダヤ人が迫害されるのか知りたくなりました。
大体の傾向だけれど、ヨーロッパではユダヤ人は好かれていないのです。「ベニスの商人」に出てくるシャイロックは強欲だ。「クリスマスキャロル」に出てくるスクルージーも守銭奴。定価千円とせずに、998円と表示するのがユダヤ商法。大体が、ユダヤ人というと、強欲で好色とされています。

単に嫌いということではなくて、複雑な側面があるらしい。調べてみました。

AD70年にエレサレムが滅んで、離散したのが端緒という。ローマ支配化の地に住んでも、習慣や生活様式を変えなかったという。キリスト教が公認されると、キリストを殺したということで、迫害が行われた。

中世封建制度の枠外にあって、知的専門職や雑事に従事していた。経済力は利用できたが好意的な扱いはなかった。

13世紀にダビデの星、14世紀にゲットーが作られる。こんな大昔にダビデの星が創られたんだ。

絶対君主が現れると、国王はユダヤ人の経済力を利用しようとする。ユダヤ人は市民階級とつながっていないから便利なわけだ。宮廷ユダヤ人や御用銀行家が現れるけれど、これは貴族や市民階級の反目を招く。

近代国家の出現は、国民の同権の観点からユダヤ人の法的権利保障が進むことであったけれども、ここでも、ユダヤ人富裕層の経済力への魅力でもあった。このような取り込みは、ユダヤ人自身のアイデンティティの確認にもなる。これだけが理由ではないようだけれど、反ユダヤ主義が高まる。

これは政治的に利用され、ドイツやオーストリアでは反ユダヤを標榜するさまざまな政治団体が出現する。

ニコライⅡ世は偽造文書『シオンの賢者の議定書』を作成させユダヤ人が世界征服をたくらんでいると喧伝し、フランスではドレフュス事件が起こっている。

近代国家が帝国主義的な政策になるにつれ、破産したあるいは階級脱落者としての中産階級の不満のはけ口としての憎悪をかう。

さらに、ロシア革命後の反共主義が反ユダヤ主義と結びつけられる。

ナチの場合には、大衆の不満のはけ口を反ユダヤ主義に求めただけでなく、アーリア人種の純潔の維持という名分のもとに、ユダヤ人の存在そのものを悪とする考え方が生み出される。

反ユダヤ主義は広くヨーロッパにあったから、ナチが占拠したハンガリーやポーランドではこういった国からも強制収容所への移送が行われた。

第二次世界大戦後の西欧では反ユダヤ主義は大きな運動にはなっていない。しかし、スウェーデンで、反ユダヤ主義の国際的集会が開かれていて、反ユダヤ主義は消滅していない。

そのような犠牲者としてのユダヤ人は、第二次大戦後のイスラエル建国により、いまも続くパレスチナ問題をひきおこしている。ユダヤ人がイスラエル建国の担保としたバルフォア宣言だって、帝国主義国家イギリスの二枚舌からひき起こされたものだ。

ユダヤ人は犠牲者でありつつ、現在では加害者にもなっている。いまから千年後、どのように決着がついているのだろうか。あるいは、未来のいまも解決すべき問題であり続けているのだろうか。誰もが同情する第二次大戦におけるユダヤ人と、アラブの地に建国し有無を言わせぬ軍事力でアラブ人を排除するユダヤ人と、同じ二つのユダヤ人の顔にどう向き合っていくべきなのだろう。

平成20年4月10日木曜日

カラマーゾフの兄弟(その3)

 ドストエフスキーの登場人物はリアリティを無視している。例えば、アリョーシャと仲のよくなるコーリャの言葉。コーリャは13歳だ。
「偏見に満ちた人間の目からどう見えようと、自然の中におかしなものは無い。君、犬が考えたり批評できるとしてみたまえ。彼らもその命令者たる人間相互の社会関係に・・・」「僕は民衆と話をするのが好きでね。」
日本でいえば中学1年生だ。こんなこと言いっこないって。

コーリャの言葉の続き。
「医術なんて、陋劣なものですよ。・・・あの方はあなたの定義では何者ですか。・・・あなたはなかなか人間を知っていらっしゃる。・・・あなたのおっしゃったことは非常に面白い思想です。・・・神を信じないでも人類を愛することはできます。ヴォルテールは神を信じなかったが人類を愛していたのです。」
信じられな~い。

「虐げられた人の道化じみた行動は、他人に対する憎悪に満ちた皮肉だ。」
何度か読み返すといろいろ考えさせられる言葉だ。憎悪に、というところはドストエフスキー自身の何かの体験によるものなのだろうか。

「彼と彼女は互いに愛し合う敵同士のようであった」

フョードル・カラマーゾフを殺したのがスメルジャコフであると知ったのに、イヴァンはすぐに検事のところには行かない。明日の裁判で言うんだなどと決心しているが、こんなことってありえない。でも、裁判で発表したほうがドラマチックになるよね。

 「悪魔 イヴァンの悪魔」の中で、ドストエフスキーは相変わらず神の存在についてあれこれ語っている。おそらく彼は答を知っているはずだ。信じる人にとっては存在するし、信じない人にとっては存在しない。
それを客観的な証拠を求めでもするかのように論を進め、懊悩し歓喜し絶望する。苦しみの元になるボール球をこねくりまわし、苦痛と喜びを同時に味わおうとでもしているかのようだ。ドストエフスキーは苦悩が浄化されて幸福にいたると思っていたのだろうか。そうすると、幸福になるためには苦悩しなければならないという逆転した論理になってしまう。

「カラマーゾフの兄弟」というのは短い日々を描くのに千ページを費やすという、冗長で散漫で、けれど非常に深刻で力強い作品だ。うっかり読み進めると、作品の中の出来事がしごく妥当なもののように思えてくる。けれどあくまでもドストエフスキーという一個人によって作られた虚構であることを意識する必要があるだろう。このような暗い強い力を持つ作品は、虚心坦懐といった態度が必ずしも良いとは思わない。こちらに強さがないとやられてしまうといったところがある。

J.P.サルトルに対して、生涯の同伴者であるS.ボーヴォワールが「あなたの舞台裏が全部わかったわ」と言ったという。サルトル自身が苦笑まじりにそう回顧する映像を見たんだから間違いはない。ドストエフスキーもそうだね。あるところで、「そうか解った。あなたはそういう人なんだ」という時がある。深遠そうに見えるし、深遠かもしれないけれど、案外そんなことでもないのかもしれない。だから、ドストエフスキーを読む人がいるんだろう。でも、僕はドストエフスキーを読んで悪縁と思ったことはないな。ずいぶんと考えさせてくれたし、楽しませてくれたから。ツルゲーネフからだったか、金を借りた後で、あいつは俺に金を貸したというんで得意なんだろうよと逆恨みする。個人的に友達になったら、こっちがずい分とつらくなるタイプの人なんだろうな。

平成20年4月8日火曜日

カラマーゾフの兄弟(その2)

「すべての人間が苦しまなければならないのは、苦痛を持って永久の調和をあがなうためだとしても・・・」
こんなのってドストエフスキーらしい言葉だと思う。とにかく苦しむのが好きなのか。苦痛哲学と表現する人もいるね。

アリョーシャの師であるゾシマ長老の語る言葉の背後には、もちろんドストエフスキーがいるわけだけれど生きているキリストといった趣がある。深い。

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」と同じ話が出てくる。ただしお釈迦様ではなくて、神様なんだけれど。

イエスが行った最初の奇跡はカナの婚礼だ。人間の悲しみではなく、喜びに向かっての奇跡ということに意味があると思う。

平成20年4月4日金曜日

カラマーゾフの兄弟(その1)

「カラマーゾフの兄弟」はドストエフスキーの最後の作品だが、それは時間的に最後というだけではなく、山に登る人が最後に頂に立ったという意味で最高の作品でもある・・・とのこと。
僕はドストエフスキーのすべての作品を読んだわけではないので何とも言えないのだけれど、「罪と罰」のあの重苦しさよりよほど面白くて好きだな。
例によって登場人物が延々と自説を述べるのはその長さに少しうんざりするけれど、言っている中身は面白いし、謎解きの面白さもある。
忘れられないような印象的な言葉がたくさん出てくる。そんな言葉を、順を追って書いてみますね。あなたは、どう思いますか。

「愛することは憎みながらでもできる。」「あの女性が愛しているのは、俺を愛するという善行なのであって俺自身じゃない。」
これって、ドストエフスキー自身のプライドが言わせた言葉じゃないの。彼の恋人であったイポリットへのねじれた感情じゃないのか。

「どうしてあなたは、遠くの他人を愛して身近な隣人を憎むのですか。」
そうだよね、世界平和のためにというのはむしろ容易い。そういう高邁な理想を述べて、例えば恋人にDVをはたらくなんてありがちなことだ。

ドストエフスキーの作品に出てくる人物は、簡単に「神」と口走る。それは、確かにドストエフスキーの心象の投影には違いないが、彼自身が神を信じていないことの告白なのではないか。

「俺は父を嫌悪している。あのノドボトケや、あの鼻や、あの目が憎くてたまらないのだ。」一人の女、グルーシェンカを奪い合う父と子だ。二人の間の緊迫感が高まっていく。きっと何かが起こる。作品の作り方がとっても上手だ。でも、いろんな家族があるなあ。

ドストエフスキーの作中人物はすべてドストエフスキーの分身だ。カラマーゾフ家の三男アリョーシャがまるで存在感がないのは、宗教に想いをめぐらすドストエフスキーあれば当然のことだ。彼は宗教家ではないね。そうではなくて、宗教とは何であるかを考える人だ。マッチをすれば暖かくなるだろうに、マッチの成分の分析に苦悩し煩悶しているのだ。苦しめば何とかなるかと思っているのか。
ドストエフスキーはアリョーシャのなかに自分の観念としての善をすべて注ぎ込んだが故に、アリョーシャの存在感は喪失してしまった。
大体、舞台回しに強い個性は似合わない。「失われたときを求めて」の、「わたし」だってそうだ。

「毒虫が毒虫をかみ殺すのだ」
カラマーゾフ家の長男ドミートリィが父のフョードルを殴りたおしたときに、次男のイヴァンがつぶやく言葉だ。無神論者のイヴァンに対してドストエフスキーは厳しい。神が存在しなければ何でも許されるといった論理を何度も展開するけれど、本気でそんなに単純に考えていたのかなあ。

長くなるから今日はここでちょん切りますね。次回続きを書きます。

平成20年3月10日月曜日

夭折の詩人 富永太郎


死が日常の断絶であるがゆえに、我々は夭折した詩人に気を引かれる。
彼は生きていたらどんなだったろうねとか、何をしたのかなという風に。だから、ゲーテは偉大だけれど夭折していたら、抒情詩人としての価値はもっと高かったに違いない。
誤解して欲しくないのだが、若死にしたことが無能な詩人に下駄をはかせて著名にしてくれるなどというつもりは毛頭ない。
凡庸な詩人が一編の詩を残して自殺したところで、詩そのものの感銘が深まるわけではない。
若死にが彼の詩才をいっそう輝かしく、哀切の思いを伴わせるということだ。そのような詩人は外国にも、わが国にもたくさんいるに違いない。

小林秀雄を読んでいたら、富永太郎のことが書かれていた。
小林秀雄の生活がまだ放埓であったころだ。富永と一緒に歩いている。富永が言う。「おい、此処を曲らう。こんな処で血を吐いちや馬鹿々々しいからな」

器械体操が得意で海軍士官にあこがれていた色白長身の美青年。そしていまは、死病といわれている肺結核をかかえた青年。若さと希望と死と。その混沌を生きた青年の言葉だ。

彼が二十歳の時に出会った八歳年長の人妻。彼は思いつめる。後に彼女は、「私はただお友達のつもりで、お付き合いしていました」と言う。

僕は富永に対して、詩よりもその手紙に引かれる。
「失敗したことよりも、またもとの自分---そして本当の自分の姿が見えて来たことが、僕を悲しくする。駄目な人間は何をやっても駄目......愛惜と憐憫と自己嘲笑との混合酒に・・・。」

「『俺は一体何がやりたいんだろう』といふことが全くわからなくなってしまった。」

「・・・夢をみた。入学試験だ。試験場の入口へ行くと、受験生が一人もみえない。入口にいる妙なぢゞいに『試験は八時からでしたね』ときくと、『いゝえ七時からですよ』」と言う。俺は黙つて帰つて来た。」

「・・・俺は何にも出来ない人間かもしれない。けれど今では相当の年齢まで生きたい。結婚はしないでも生きてゐられると思ふ。」

「頑固な不眠症がやって来て毎日三時ごろまで眠れない。ひるまはたまらなくぼんやりしてゐて、夜になるとまた冴えて来る。」

「夜は眠れないから、従つて朝は学校へ出られない。さうかといって、夜は夜で全く何も出来ない。すつかり駄目だ。・・・今日は一日寝てしまつた。」

「・・・きのふは俺の一周忌だつた。夜中椅子に腰かけたばこを吸つてばかりゐた。俺にふさはしい一周忌の法要かも知れない。酒が飲みたい。」

「俺からは何もかも奪はれてるんだ。時々激しい「怒り」の発作が襲つて来る。だが、こんなことはみんなつまらないことだ。つまらないことだ。」

大喀血をした彼は24歳で死ぬ。
没後、小林の追悼文の中に富永の言葉がある。
「おい、此処を曲らう。こんな処で血を吐いちや馬鹿々々しいからな」・・・
   (絵は富永太郎自画像)

平成20年3月4日火曜日

ヒラリー対オバマ

アメリカの大統領選挙戦はまるでお祭りのようだ。
運動員や支持者を大量に動員して、資力の勝負のようでもあるのはアメリカらしい。
しかも、今秋の選挙のためにはるか前から全力投球が続く。
過酷な過程だ。
ただ、この制度の中に優れた点を見出すことができる。
これだけ徹底的に競いあえば、僅少の差であっても優劣は見極められる。
合衆国大統領として職務を十分に果たせるか、その資質を十分に見極めることはなんとしても必要だ。能力の僅少の差は、その職の影響を考えれば重大だ。
さらに、この競い合いの中で、候補者は大統領としての資質を高めていくことができる。何が論点か、何をすべきか、いわば大統領見習いを選挙戦を通じて行うことができる。
かってのロシアでは、クレムリンのひな壇に誰がどの順で立つかによって、順位を世界に知らしめた。
こんなことに比べたら、アメリカははるかに開明的で健康的だ。

平成20年3月2日日曜日

ヒトラーの戦争


「シンドラーのリスト」を観た。
重すぎるくらいに重い。監督のスピルバーグがロシア系ユダヤ人であるということ。血縁者にジェノサイドの犠牲者がいるということ。監督としての報酬を受け取らなかったということは、彼にとって他人事ではなかったということだ。
これを渾身の作というのだろう。宮沢元首相の言った言葉がとても記憶に残っている。
「ドイツのように賢い国が二度も戦争をしたんですよ。」
ヒトラーは選挙によってあの地位についた。暴力によってではない。
国民がヒトラーを支持したんだ。勿論、そんなことをするとは思わなかった、という言い方もあるだろう。そういう事実もあるに違いない。
でもこんなのもある。
アウシュビッツだったかダッハウだったかだ。ドイツが破れ、絶滅収容所からかろうじて助け出された人たちがいた。その人達に向かって、周囲に住むドイツ人達が言う。
「申し訳ありません。私たちは何も知らなかったんです。」
ユダヤ人たちが低く答える。
「貴方たちは知っていた。何もかも知っていた。ナニモカモ・・・」

平成20年3月1日土曜日

言葉の意味

差別用語ってのがある。地理では、裏日本とか表日本とか言っていた。でもこれでは、例えば新潟や秋田の人は面白くないだろう。そこで、太平洋側とか日本海側というふうに改めた。表現が明確で公平で、分かりやすい。

いつでもそんなふうに行くわけでもない。
「立派」、と言えば褒めているのだけれど、「ご立派」となって、「ご」にアクセントがあれば喧嘩を売っているのかということになる。
丁寧語だって使い方ではいじめになる。
差別であるかないかは前後の文脈で判断すべきなんだ。
いじめ自殺なんかでも、「ただ遊んでいるのかと思った」なんていう意見もそれが見えていなかったということなのだ。
もしかして、見えていて見えない振りをするなんていうこともありうる。