平成20年5月10日土曜日

夭折の詩人 立原道造


立原道造記念館。
ここの存在は知っていたのですが初めて来ました。
2Fと3Fが展示室になっていて、実際に立原道造が使っていた机がありました。
他の記念館などでも同じ経験をしたことなのですが、主を失い長く使われなくなると全てが小さく質素に感じられます。何であっても、優れた作品を生み出すのにマホガニーの大テーブルはいらないんですね。

立原は洋燈が好きだったということで、愛用のそれを持っている写真もありました。左の洋燈です。夕暮れ、洋燈をともしてその下で安らいだら、それはもうそのまま立原道造の世界になりますね。

ずっと前の夏休みのこと。
中央図書館の古色蒼然としたいかめしい石造り。夏休みなのに、学生たちが半分近くも席を埋めて勉強している。重厚であったであろう内装も、時を経てお粗末さだけが浮きあがっていた。きしむ椅子、前席と区切るための衝立。冷房がないものだから横に大きな扇風機がいくつも並び、生温かい風を送っていた。開け放した窓からは蝉しぐれ。
僕にはすることがきっとたくさんあったはずだ。でもなぜか、立原や文芸評論や抒情詩など、自分のフィールドとはまるで関係のないものばかりを読んでいた。夕暮れ近くに外に出ると、少し低地になったグラウンドの周りに大学や付属の建物が見え、空気の汚い都会のことだ、白茶けた空に入道雲が何層にも重なって見えた。毎日そのようにしてすごした夏が、今でも鮮明に記憶に残っている。

立原のノートがありました。
小学校時代から文字を正確に書く少年だったんですね。
凸レンズの作図もありました。焦点の外側にロウソクを置いて、その倒立実像の図です。炎の先端からだけではなく、ロウソクの肩の部分からも光線を引いています。当時はそのような教科書だったのか、あるいは立原だけがそのようにしたものか分かりませんが。
赤いセロファンを通った光はどうして赤いのかという質問に対する立原の答が書いてあって、他の波長の光を通さないからだときちんと表現しています。
立原というと詩と結びつくけれど、理系の人ですものね。立原の使ったカラスグチなどの製図器具もありましたけれど、今ならコンピュータとCADで自在に描くのでしょうね。立原が長命でこんなツールを使ったなら、そして丹下健三さんと競いあったならなどと想像しました。

立原の文章。
「僕のなかには優しい小鳥が住んでゐます。ピンク色の微笑や草よりもつよいにほひのする髪の毛を持ってゐて、かの女は僕によいものを与へ、またよいものを奪ひ去って行きます。」 彼と人生を託すはずだった人、水戸部アサイ。二人だけで交わした婚約というのも彼の詩にふさわしい。立原の死後、十九才のアサイは立原をめぐる知己達のもとから姿を消す。後に信濃追分の駅に佇むアサイの姿が見られたという。

人は、彼女が彼の思い出の中に生きていくことを望むのかもしれない。でもそれはこちらの勝手な思いであって、生身の人へのいたわりに欠けている。一冊の恋愛小説を残したからといって、ヒーローやヒロインの実際の人生がそこで終るわけではない。僕たちはその美しい作品に感謝し、そして彼らの幸せを望めばいいのだと思う。

平成20年5月7日水曜日

I love Ochanomizu. (4)


JR御茶ノ水駅の西口を出てそのまま緩やかな坂を南に3分。明大を過ぎるとほぼ直交するように靖国通りにぶつかり、ここが駿河台下。右手に三省堂書店の高いビル。三省堂書店の南側から、靖国通りとほぼ平行して始まるのがすずらん通り。すずらん通りを50メートルくらい進んだ左手に、この写真の「東京堂書店」があります。
何でご紹介したかというと、本の選び方がとても良いのです。1Fは一般雑誌や文庫だから個性を特別に感じるということはないのですが、2F以上に上がると各分野ごとに、自分が読みたかったのはこんな本なんだというものがあります。評論家の立花隆さんが、目利きが本をそろえているとどこかに書いていましたが同感です。東京堂書店は以前、上のほうの事務階までが書籍売り場だったのです。ソファも置いてあり、座って読んだりもしていました。それが学校帰りの生徒の使い方が良くなかったのか、あるいは他の理由なのか、この階は事務用になってしまいました。5月中旬、数日閉鎖して店内を変えるとのこと。再開を楽しみにしています。5月31日はすずらん祭りがあり、この通りが賑やかになります。もちろん僕も行きます。

平成20年5月2日金曜日

I love Ochanomizu. (3)




文化学院から南、日大理工と明大の間を下りていきます。右側は明大ですが以前は郵政省(?)職員宿舎だったものを大学が買いとりました。イチョウの大木が並んでいて、秋になると銀杏がたくさん落ちて足元が滑ります。下りると錦華公園。山の上ホテルの西側になります。ここから明大のリバティタワーを撮ったものが最初の写真です。上の階にある食堂は学食の域を超えているとか。まだ未経験なのですが、時間が合うなら行ってみたい所です。

公園というのは勝ち組負け組がはっきりしていて、まったく寂れたところからいつも賑わうところまで様々ですが、ここは必ず誰かがいます。
錦華公園の南側に隣接するのがお茶の水幼稚園と御茶の水小学校です。お茶の水小学校の敷地内には夏目漱石の碑が建っています。この小学校の卒業生なんですね。碑を見ると、「我輩は猫である・・・」とあった後、「錦華に学ぶ」とあります。

以前は、錦華小学校という名前でした。でも都市部の空洞化と少子化の影響で、近隣の小学校を廃校にして錦華小学校に統合することになりました。この時に、歴史のある錦華の名前を残したいと地元では相当に運動したのですが、錦華小学校だけ校名を残すのでは吸収合併になってしまうということで、お茶の水小学校となりました。三方一両損のような感じで、フェアということではそうなのでしょうけれど、歴史が失われていく感じもします。

I love Ochanomizu. (2)



続いて、文化学院です。
ニコライ堂からは西になりますが、やはり徒歩3分くらいです。御茶ノ水駅西口を南北に走るのが明大通りで、駅から1分ほど南下して明治大学にぶつかったらそこを右折です。最初が少し上り坂の細い並木道でとちの木通りと名づけられています。両側にマロニエの並木が続きます。5月の晴れわたった日に木陰を歩くとこの若葉が陽に透かされて、それはもう素晴しいです。

途中、左手にLEMONというイタリア料理の店があり、大きなブランコがおいてあります。下校途中の小学生が乗って遊んで、注意されたりします。
右手が文化学院になります。正門がいかにも伝統を感じさせますね。正門は残っていますが後方は近代的なビルに変わりました。低層は放送局で、その上が文化学園の校舎だそうです。文化文芸に力を入れていた文化学院ですが、時代の趨勢で放送映画総合芸術へと軌道を少し変えているようです。

文化学院の歴代講師って、文化人オンパレードといった趣があって多士済々です。まず、学監が与謝野寛、晶子です。ざっと挙げると、吉野作造 寺田寅彦 清水幾太郎 三木清   田中美知太郎 和辻哲郎 山田耕筰 有島生馬 高階秀爾 東郷青児 阿部次郎 有島武郎 萩原朔太郎 北原白秋 高浜虚子 川端康成 芥川龍之介 横光利一 小林秀雄 学校側の意気込みを感じます。

文化学院から西にはアテネフランセが見えます。ここからの眺めは、季節によって日によってさまざまな変化があって楽しめます。私は日曜日など人のいない時の、ひっそりとした普段と違う雰囲気が好きです。ここらあたり一帯は、フランスと雰囲気が似ているとよく言われます。
その理由のひとつとして、電柱と電線がないことが大いに関係していると思います。たしかに、電線が空を切らなければどこだってとてもすばらしい眺めになりますよね。でも電力線を地下に敷設して、美しい風景を楽しむための公費投入なんてありえませんよね。

I love Ochanomizu. (1)

大好きな街の案内をしますね。先ずは、御茶ノ水です。住人であったことはないのですが知人が何人もいるし、懐かしくて居るだけでほっとするすばらしい街ですよ。

最初は、ニコライ堂です。
JR御茶ノ水駅には2箇所の出口がありますが、秋葉原寄りで出ます。そのまま道路に沿ってでもいいし、少し駅中央に寄ってから南進しても同じですが、所要時間1分です。

ニコライ堂の正式名称は東京復活大聖堂教会というそうです。ニコライ堂の名称は幕末にロシアから来日して日本ハリストス正教会を樹立したニコライ大主教に由来するとのこと。正教会は東ローマ帝国起源のキリスト教教会です。明治17年に起工し、明治24年完成。当時日本には専門の技師がいなかったので、ロシアの工科大学の方が設計し英国人が工事を監督したもので、聖堂の高さは35メートル、建坪318坪、壁の厚さは1メートルないし1メートル63センチもあるそうです。建築様式はビザンチン式とよばれ、西欧のゴシック式の教会堂と違って中央にドームがあります。外部から見てもとても壮麗ですね。ニコライ堂の鐘楼には大小6つの鐘があります。ロシアにはこの建築様式が多いですね。宗教が同じということでしょうか。日本の重要文化財は木造が多いのですが、ここは石造の重要文化財です。1992年からおよそ9年の歳月を費やして修復が行われました。写真に見える十字架もそのときに修復されたものです。中に入ったことがないのですが、聖堂のなかのシャンデリヤなども実に美しくなったそうです。
昔、英語の講座が開講されていました。私もせっせと通った覚えがあります。