絵を描くときに、ルノワールのように暖色でやわらかく描くこともできる。ルソーのこの「告白」は、鉄筆でキャンバスを引っかくような趣を感じる。真実なのだろうけれど、それが楽しいかどうかは別の問題だ。
「私は病弱として生まれた。それが母の命を奪った。私の誕生は私の最初の不幸であった。」とても印象的な書き方だ。ここで感じたのは私への重視だ。興味の関心は、不幸な母よりもこの私なのだ。
「私は考える前に感じた。何も理解しなかったが、何もかも感じていた。」 こういうことってあるのかもしれない。でも後年になって、自分でそう感じていたに違いないと考えているだけなのかもしれない。
「K婦人は私が知るかぎり最もやかましいお婆さんだった。彼女がお説教を聴きにいっている間に、彼女の鍋の中に小便をしたのを思い出す。」
元気でいたずらっ子の少年なら、きっとこの程度の悪戯はするよね。自伝の面白さって、こんなふうに生身の人間を身近に感じられるところにあるよね。
「私ほど××な者はないだろう」という言葉がとっても多いな。それほど自意識が強かったということなのだろうか。近代的自我の云々といわれる所以なのかもしれない。
ルソーは、自分にかかわりのある人をきれいに二分する。つまり、味方と敵だ。あるいは、善人と悪人だ。わかりやすいけれど、実際には悪意をふくんだ味方とか、友情を感じさせる敵なんてのも言葉の遊びではなくてあるんじゃないか。
これを読んで感じたことは、自伝というのは、事実が書かれているということではなくて、書かれている事実があるということだ。
自伝というひとつの虚構。でもだからといって、何もかも真実はないなどと言う気持ちはさらさらない。どこまでありのままを表現しうるのだろうか。言葉の可能性の前に、書き手の気持ちのありようがその作品の基底音を決定してしまうのだろう。
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