平成20年4月10日木曜日

カラマーゾフの兄弟(その3)

 ドストエフスキーの登場人物はリアリティを無視している。例えば、アリョーシャと仲のよくなるコーリャの言葉。コーリャは13歳だ。
「偏見に満ちた人間の目からどう見えようと、自然の中におかしなものは無い。君、犬が考えたり批評できるとしてみたまえ。彼らもその命令者たる人間相互の社会関係に・・・」「僕は民衆と話をするのが好きでね。」
日本でいえば中学1年生だ。こんなこと言いっこないって。

コーリャの言葉の続き。
「医術なんて、陋劣なものですよ。・・・あの方はあなたの定義では何者ですか。・・・あなたはなかなか人間を知っていらっしゃる。・・・あなたのおっしゃったことは非常に面白い思想です。・・・神を信じないでも人類を愛することはできます。ヴォルテールは神を信じなかったが人類を愛していたのです。」
信じられな~い。

「虐げられた人の道化じみた行動は、他人に対する憎悪に満ちた皮肉だ。」
何度か読み返すといろいろ考えさせられる言葉だ。憎悪に、というところはドストエフスキー自身の何かの体験によるものなのだろうか。

「彼と彼女は互いに愛し合う敵同士のようであった」

フョードル・カラマーゾフを殺したのがスメルジャコフであると知ったのに、イヴァンはすぐに検事のところには行かない。明日の裁判で言うんだなどと決心しているが、こんなことってありえない。でも、裁判で発表したほうがドラマチックになるよね。

 「悪魔 イヴァンの悪魔」の中で、ドストエフスキーは相変わらず神の存在についてあれこれ語っている。おそらく彼は答を知っているはずだ。信じる人にとっては存在するし、信じない人にとっては存在しない。
それを客観的な証拠を求めでもするかのように論を進め、懊悩し歓喜し絶望する。苦しみの元になるボール球をこねくりまわし、苦痛と喜びを同時に味わおうとでもしているかのようだ。ドストエフスキーは苦悩が浄化されて幸福にいたると思っていたのだろうか。そうすると、幸福になるためには苦悩しなければならないという逆転した論理になってしまう。

「カラマーゾフの兄弟」というのは短い日々を描くのに千ページを費やすという、冗長で散漫で、けれど非常に深刻で力強い作品だ。うっかり読み進めると、作品の中の出来事がしごく妥当なもののように思えてくる。けれどあくまでもドストエフスキーという一個人によって作られた虚構であることを意識する必要があるだろう。このような暗い強い力を持つ作品は、虚心坦懐といった態度が必ずしも良いとは思わない。こちらに強さがないとやられてしまうといったところがある。

J.P.サルトルに対して、生涯の同伴者であるS.ボーヴォワールが「あなたの舞台裏が全部わかったわ」と言ったという。サルトル自身が苦笑まじりにそう回顧する映像を見たんだから間違いはない。ドストエフスキーもそうだね。あるところで、「そうか解った。あなたはそういう人なんだ」という時がある。深遠そうに見えるし、深遠かもしれないけれど、案外そんなことでもないのかもしれない。だから、ドストエフスキーを読む人がいるんだろう。でも、僕はドストエフスキーを読んで悪縁と思ったことはないな。ずいぶんと考えさせてくれたし、楽しませてくれたから。ツルゲーネフからだったか、金を借りた後で、あいつは俺に金を貸したというんで得意なんだろうよと逆恨みする。個人的に友達になったら、こっちがずい分とつらくなるタイプの人なんだろうな。

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