平成20年7月23日水曜日

秋葉原の通り魔事件

 秋葉原の無差別差殺傷事件について、京都大学の加藤尚武先生が書かれた記事が目につきました。どこか根深いところで言い当てていると思われました。以下転載です。

秋葉原事件と高校教育の陥穽
《自尊心を欠く犯罪》 
6月8日の通り魔殺人事件は7人の命を奪い、10人の負傷者を出すという悲惨な結果を生み出した。「誰でもいいから殺す」という無差別殺人の場合、動機の解明や犯行時の精神状態を明らかにして刑事事件としての立証をしても、そもそも刑事罰の有効性が成り立たないので、犯罪の一般予防という観点から見ると刑罰以外の対処をも視野に入れなくてはならない。
 犯人(25歳)の生い立ちや性格についても十分な調査をする必要があるが、実際には、生い立ちを調べることは両親や兄弟のプライバシー保護と抵触するし、そのような調査をする権限をもつ公的な機関が存在しない。 非行をする少年や若い犯罪者について、規範やルールの認識が欠けているという判断を下す人が多いが、たいていの場合非行や犯罪には「悪いことだと分かっているからこそ、あえて行う」という挑戦的態度が見られる。 秋葉原の通り魔殺人の犯人に関しても、世間から激しい非難を浴びるような行為をわざと選んだように思われる。彼の動機に、親に対する復讐(ふくしゅう)という要素があったと指摘する人が多い。ほとんど自殺に限りなく近い形で、自分を破滅させるという行為には、何よりもまず「自分を大切に思う気持ち」(自己評価、自尊心)が欠けている。若い犯罪者に欠けているのは、たいていの場合、規範意識ではなくて、自尊心である。

 ≪共同選果場化した現場≫ 
日本の県立高校は、工業・農業・商業という実業高校は統廃合によって、普通制高校に変わっていく、男女別学が男女共学に変わっていくという過程を通じて、特色のはっきり分からない普通制高等学校が並立しているという状況になっている。 学校の違いは、入試の点数によって、明確に分かれる。AクラスからEクラスぐらいまでに分かれる。エリートから外れた高校に通う者が3年間に身につけるものは、まずEクラスとか、Dクラスとかのレッテルを張られているという屈辱感に耐えることである。 Eクラスとか、Dクラスの高校では、雨の日の朝は生徒の表情が少し明るいといわれる。社会的なレッテルをあらわす制服をレインコートで包むことが許されるからだ。 高等学校の共同選果場体制化は、少子化による学校統廃合と受験の圧力という教育に固有の事情から生まれていったのだが、それが現在では、若者の就職先が、正規雇用型と派遣型に分かれるという社会的な変化にぴったりはめ込まれたようになっている。 エリート校の受験体制に乗り込むよりほかに、自分の努力によって自分の未来を切り開く余地が実際にほとんど存在しないことに多くの若者は気づいている。
 エリート校に進めば、そこは大学受験のためのもっとも効率のよい修練場である。たとえば歴史の教科書でカントという人物名を見たら、カントについての3行程度の記述を完全に記憶しなくてはならない。カントの著作を読んでみるというような無駄は許されない。彼らが大学に入ってきたとき、「受験に必要な知識」という型にはまった知識以外には、脳の中には何もない状態になっている。

≪落ちてはならぬコンベヤー≫ 
エリート校の出身者が、大学院に進むまでに受験後遺症を払拭(ふっしょく)して、のびのびとした独創的な発想力を身につけるのは難しい。秀才ではあるが、研究者としては二流以下の若者が大学院にあふれかえっている。 秋葉原の殺人犯は、絶対に落ちてはならないコンベヤーベルトから落ちたのだ。そして彼の攻撃的な精神にはたえられないDクラス、Eクラスの屈辱を背負って生きる以外に自分の可能性がないことに直面していた。彼の犯行は、共同選果場体制から、たまたま落ちこぼれたいびつな林檎(りんご)の悲劇だったのではないだろうか。 高等学校の共同選果場体制は、日本の若者から気力と創造力を奪っている。高等学校は、自分を大事にするという気持ちを他人と共有し合うこと、人間としての深さ、他人に対処する姿勢を芸術や文化の深さに触れることで養うなど、人間としての成長の期間でなければならないのに、選別のためのたんなるコンベヤーベルトと化している。 
 その責任の一端は、大学の側が生み出してきた入試体制そのものにある。現行の入試では1点でも多くの点数をとれば有利になる。一定以上の点数をとれば合格の必要条件を満たすという方式も検討すべきだ。 将来の日本が、人材の豊かさを誇ることができるようにするためには、高等学校の共同選果場体制を解消するという課題に取り組まなくてはならない。

平成20年7月8日火曜日

桐野夏生さん

作家である桐野夏生さんが、自分の仕事と生き方について書いた記事を見つけました。自分の人生を納得のいく形で生きるためには、時と所が変わっても各自が経なければならない過程なのかもしれません。抜粋です。(2008年7月6日、朝日新聞)

 私たちの世代の女性は、今からは想像もできないほどの就職難に直面していました。しかも大学を出たのは石油ショックの翌年。友人のほとんどは、就職ができても結婚を機に辞め、家庭の主婦になっています。私自身は子供の頃から、いろいろな問題を考えるのが好きで、いずれは新聞記者になりたい、などと漠然と思っていましたが、女性の私には高すぎるハードルでした。 大学時代はベトナム戦争もあり、全共闘運動、ヒッピームーブメントの盛んな頃でしたから、「この世の中はおかしい」と強く感じていました。就職することが、現実に負けるような気がしましたし、権力におもねることではないか、とも考えていたのです。
 大学を出て、いくつか小さな会社に勤めましたが、将来の展望も持てないままに辞めてしまい、不満を抱えつつも、自分はアウトサイダーになるしかないと決心しました。 出版社の試験も受けたことがあります。でも女性誌枠の編集募集で、一般教養の試験ではなく、洋裁や料理の知識が求められた時代です。私は家庭科音痴だったので、理不尽だと憤慨もしましたが仕方ない(笑い)。書くのが好きだったのでライターの仕事もやりました。でも、膨らませて、はら話を作るのは得意でも、要点を抽出するのが意外と苦手で、あまり向いていなかったように思います。 しかし、シナリオ教室に通うようになった後、最初の小説を書いた時に、とても驚いたものです。楽しいし、いくらでもアイデアが湧く。自由に虚構を作る方が向いていることは、自分でも意外でした。自分が作り出した世界に酔って放心できるし、ライターズハイも体験して、これは天職だ、自分の仕事にしていきたい、と思ったのです。経済的に自立できるのはまだずっと先でしたけど、ともかく書きたいことを書き、自分自身が楽しく酔える仕事をしようと決めました。
 就職で挫折し、社会から要らないと弾かれた気分が強かったがゆえに、自分で将来を手探りしなくてはならなかったことが、自分を突き詰めることになったのだと思います。