平成20年4月18日金曜日

J.J.ルソーの 「告白」

絵を描くときに、ルノワールのように暖色でやわらかく描くこともできる。ルソーのこの「告白」は、鉄筆でキャンバスを引っかくような趣を感じる。真実なのだろうけれど、それが楽しいかどうかは別の問題だ。

「私は病弱として生まれた。それが母の命を奪った。私の誕生は私の最初の不幸であった。」とても印象的な書き方だ。ここで感じたのは私への重視だ。興味の関心は、不幸な母よりもこの私なのだ。

「私は考える前に感じた。何も理解しなかったが、何もかも感じていた。」 こういうことってあるのかもしれない。でも後年になって、自分でそう感じていたに違いないと考えているだけなのかもしれない。

「K婦人は私が知るかぎり最もやかましいお婆さんだった。彼女がお説教を聴きにいっている間に、彼女の鍋の中に小便をしたのを思い出す。」
元気でいたずらっ子の少年なら、きっとこの程度の悪戯はするよね。自伝の面白さって、こんなふうに生身の人間を身近に感じられるところにあるよね。

「私ほど××な者はないだろう」という言葉がとっても多いな。それほど自意識が強かったということなのだろうか。近代的自我の云々といわれる所以なのかもしれない。

ルソーは、自分にかかわりのある人をきれいに二分する。つまり、味方と敵だ。あるいは、善人と悪人だ。わかりやすいけれど、実際には悪意をふくんだ味方とか、友情を感じさせる敵なんてのも言葉の遊びではなくてあるんじゃないか。

これを読んで感じたことは、自伝というのは、事実が書かれているということではなくて、書かれている事実があるということだ。
自伝というひとつの虚構。でもだからといって、何もかも真実はないなどと言う気持ちはさらさらない。どこまでありのままを表現しうるのだろうか。言葉の可能性の前に、書き手の気持ちのありようがその作品の基底音を決定してしまうのだろう。

平成20年4月11日金曜日

ユダヤ人

「シンドラーのリスト」を観てから、何でユダヤ人が迫害されるのか知りたくなりました。
大体の傾向だけれど、ヨーロッパではユダヤ人は好かれていないのです。「ベニスの商人」に出てくるシャイロックは強欲だ。「クリスマスキャロル」に出てくるスクルージーも守銭奴。定価千円とせずに、998円と表示するのがユダヤ商法。大体が、ユダヤ人というと、強欲で好色とされています。

単に嫌いということではなくて、複雑な側面があるらしい。調べてみました。

AD70年にエレサレムが滅んで、離散したのが端緒という。ローマ支配化の地に住んでも、習慣や生活様式を変えなかったという。キリスト教が公認されると、キリストを殺したということで、迫害が行われた。

中世封建制度の枠外にあって、知的専門職や雑事に従事していた。経済力は利用できたが好意的な扱いはなかった。

13世紀にダビデの星、14世紀にゲットーが作られる。こんな大昔にダビデの星が創られたんだ。

絶対君主が現れると、国王はユダヤ人の経済力を利用しようとする。ユダヤ人は市民階級とつながっていないから便利なわけだ。宮廷ユダヤ人や御用銀行家が現れるけれど、これは貴族や市民階級の反目を招く。

近代国家の出現は、国民の同権の観点からユダヤ人の法的権利保障が進むことであったけれども、ここでも、ユダヤ人富裕層の経済力への魅力でもあった。このような取り込みは、ユダヤ人自身のアイデンティティの確認にもなる。これだけが理由ではないようだけれど、反ユダヤ主義が高まる。

これは政治的に利用され、ドイツやオーストリアでは反ユダヤを標榜するさまざまな政治団体が出現する。

ニコライⅡ世は偽造文書『シオンの賢者の議定書』を作成させユダヤ人が世界征服をたくらんでいると喧伝し、フランスではドレフュス事件が起こっている。

近代国家が帝国主義的な政策になるにつれ、破産したあるいは階級脱落者としての中産階級の不満のはけ口としての憎悪をかう。

さらに、ロシア革命後の反共主義が反ユダヤ主義と結びつけられる。

ナチの場合には、大衆の不満のはけ口を反ユダヤ主義に求めただけでなく、アーリア人種の純潔の維持という名分のもとに、ユダヤ人の存在そのものを悪とする考え方が生み出される。

反ユダヤ主義は広くヨーロッパにあったから、ナチが占拠したハンガリーやポーランドではこういった国からも強制収容所への移送が行われた。

第二次世界大戦後の西欧では反ユダヤ主義は大きな運動にはなっていない。しかし、スウェーデンで、反ユダヤ主義の国際的集会が開かれていて、反ユダヤ主義は消滅していない。

そのような犠牲者としてのユダヤ人は、第二次大戦後のイスラエル建国により、いまも続くパレスチナ問題をひきおこしている。ユダヤ人がイスラエル建国の担保としたバルフォア宣言だって、帝国主義国家イギリスの二枚舌からひき起こされたものだ。

ユダヤ人は犠牲者でありつつ、現在では加害者にもなっている。いまから千年後、どのように決着がついているのだろうか。あるいは、未来のいまも解決すべき問題であり続けているのだろうか。誰もが同情する第二次大戦におけるユダヤ人と、アラブの地に建国し有無を言わせぬ軍事力でアラブ人を排除するユダヤ人と、同じ二つのユダヤ人の顔にどう向き合っていくべきなのだろう。

平成20年4月10日木曜日

カラマーゾフの兄弟(その3)

 ドストエフスキーの登場人物はリアリティを無視している。例えば、アリョーシャと仲のよくなるコーリャの言葉。コーリャは13歳だ。
「偏見に満ちた人間の目からどう見えようと、自然の中におかしなものは無い。君、犬が考えたり批評できるとしてみたまえ。彼らもその命令者たる人間相互の社会関係に・・・」「僕は民衆と話をするのが好きでね。」
日本でいえば中学1年生だ。こんなこと言いっこないって。

コーリャの言葉の続き。
「医術なんて、陋劣なものですよ。・・・あの方はあなたの定義では何者ですか。・・・あなたはなかなか人間を知っていらっしゃる。・・・あなたのおっしゃったことは非常に面白い思想です。・・・神を信じないでも人類を愛することはできます。ヴォルテールは神を信じなかったが人類を愛していたのです。」
信じられな~い。

「虐げられた人の道化じみた行動は、他人に対する憎悪に満ちた皮肉だ。」
何度か読み返すといろいろ考えさせられる言葉だ。憎悪に、というところはドストエフスキー自身の何かの体験によるものなのだろうか。

「彼と彼女は互いに愛し合う敵同士のようであった」

フョードル・カラマーゾフを殺したのがスメルジャコフであると知ったのに、イヴァンはすぐに検事のところには行かない。明日の裁判で言うんだなどと決心しているが、こんなことってありえない。でも、裁判で発表したほうがドラマチックになるよね。

 「悪魔 イヴァンの悪魔」の中で、ドストエフスキーは相変わらず神の存在についてあれこれ語っている。おそらく彼は答を知っているはずだ。信じる人にとっては存在するし、信じない人にとっては存在しない。
それを客観的な証拠を求めでもするかのように論を進め、懊悩し歓喜し絶望する。苦しみの元になるボール球をこねくりまわし、苦痛と喜びを同時に味わおうとでもしているかのようだ。ドストエフスキーは苦悩が浄化されて幸福にいたると思っていたのだろうか。そうすると、幸福になるためには苦悩しなければならないという逆転した論理になってしまう。

「カラマーゾフの兄弟」というのは短い日々を描くのに千ページを費やすという、冗長で散漫で、けれど非常に深刻で力強い作品だ。うっかり読み進めると、作品の中の出来事がしごく妥当なもののように思えてくる。けれどあくまでもドストエフスキーという一個人によって作られた虚構であることを意識する必要があるだろう。このような暗い強い力を持つ作品は、虚心坦懐といった態度が必ずしも良いとは思わない。こちらに強さがないとやられてしまうといったところがある。

J.P.サルトルに対して、生涯の同伴者であるS.ボーヴォワールが「あなたの舞台裏が全部わかったわ」と言ったという。サルトル自身が苦笑まじりにそう回顧する映像を見たんだから間違いはない。ドストエフスキーもそうだね。あるところで、「そうか解った。あなたはそういう人なんだ」という時がある。深遠そうに見えるし、深遠かもしれないけれど、案外そんなことでもないのかもしれない。だから、ドストエフスキーを読む人がいるんだろう。でも、僕はドストエフスキーを読んで悪縁と思ったことはないな。ずいぶんと考えさせてくれたし、楽しませてくれたから。ツルゲーネフからだったか、金を借りた後で、あいつは俺に金を貸したというんで得意なんだろうよと逆恨みする。個人的に友達になったら、こっちがずい分とつらくなるタイプの人なんだろうな。

平成20年4月8日火曜日

カラマーゾフの兄弟(その2)

「すべての人間が苦しまなければならないのは、苦痛を持って永久の調和をあがなうためだとしても・・・」
こんなのってドストエフスキーらしい言葉だと思う。とにかく苦しむのが好きなのか。苦痛哲学と表現する人もいるね。

アリョーシャの師であるゾシマ長老の語る言葉の背後には、もちろんドストエフスキーがいるわけだけれど生きているキリストといった趣がある。深い。

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」と同じ話が出てくる。ただしお釈迦様ではなくて、神様なんだけれど。

イエスが行った最初の奇跡はカナの婚礼だ。人間の悲しみではなく、喜びに向かっての奇跡ということに意味があると思う。

平成20年4月4日金曜日

カラマーゾフの兄弟(その1)

「カラマーゾフの兄弟」はドストエフスキーの最後の作品だが、それは時間的に最後というだけではなく、山に登る人が最後に頂に立ったという意味で最高の作品でもある・・・とのこと。
僕はドストエフスキーのすべての作品を読んだわけではないので何とも言えないのだけれど、「罪と罰」のあの重苦しさよりよほど面白くて好きだな。
例によって登場人物が延々と自説を述べるのはその長さに少しうんざりするけれど、言っている中身は面白いし、謎解きの面白さもある。
忘れられないような印象的な言葉がたくさん出てくる。そんな言葉を、順を追って書いてみますね。あなたは、どう思いますか。

「愛することは憎みながらでもできる。」「あの女性が愛しているのは、俺を愛するという善行なのであって俺自身じゃない。」
これって、ドストエフスキー自身のプライドが言わせた言葉じゃないの。彼の恋人であったイポリットへのねじれた感情じゃないのか。

「どうしてあなたは、遠くの他人を愛して身近な隣人を憎むのですか。」
そうだよね、世界平和のためにというのはむしろ容易い。そういう高邁な理想を述べて、例えば恋人にDVをはたらくなんてありがちなことだ。

ドストエフスキーの作品に出てくる人物は、簡単に「神」と口走る。それは、確かにドストエフスキーの心象の投影には違いないが、彼自身が神を信じていないことの告白なのではないか。

「俺は父を嫌悪している。あのノドボトケや、あの鼻や、あの目が憎くてたまらないのだ。」一人の女、グルーシェンカを奪い合う父と子だ。二人の間の緊迫感が高まっていく。きっと何かが起こる。作品の作り方がとっても上手だ。でも、いろんな家族があるなあ。

ドストエフスキーの作中人物はすべてドストエフスキーの分身だ。カラマーゾフ家の三男アリョーシャがまるで存在感がないのは、宗教に想いをめぐらすドストエフスキーあれば当然のことだ。彼は宗教家ではないね。そうではなくて、宗教とは何であるかを考える人だ。マッチをすれば暖かくなるだろうに、マッチの成分の分析に苦悩し煩悶しているのだ。苦しめば何とかなるかと思っているのか。
ドストエフスキーはアリョーシャのなかに自分の観念としての善をすべて注ぎ込んだが故に、アリョーシャの存在感は喪失してしまった。
大体、舞台回しに強い個性は似合わない。「失われたときを求めて」の、「わたし」だってそうだ。

「毒虫が毒虫をかみ殺すのだ」
カラマーゾフ家の長男ドミートリィが父のフョードルを殴りたおしたときに、次男のイヴァンがつぶやく言葉だ。無神論者のイヴァンに対してドストエフスキーは厳しい。神が存在しなければ何でも許されるといった論理を何度も展開するけれど、本気でそんなに単純に考えていたのかなあ。

長くなるから今日はここでちょん切りますね。次回続きを書きます。