「カラマーゾフの兄弟」はドストエフスキーの最後の作品だが、それは時間的に最後というだけではなく、山に登る人が最後に頂に立ったという意味で最高の作品でもある・・・とのこと。
僕はドストエフスキーのすべての作品を読んだわけではないので何とも言えないのだけれど、「罪と罰」のあの重苦しさよりよほど面白くて好きだな。
例によって登場人物が延々と自説を述べるのはその長さに少しうんざりするけれど、言っている中身は面白いし、謎解きの面白さもある。
忘れられないような印象的な言葉がたくさん出てくる。そんな言葉を、順を追って書いてみますね。あなたは、どう思いますか。
「愛することは憎みながらでもできる。」「あの女性が愛しているのは、俺を愛するという善行なのであって俺自身じゃない。」
これって、ドストエフスキー自身のプライドが言わせた言葉じゃないの。彼の恋人であったイポリットへのねじれた感情じゃないのか。
「どうしてあなたは、遠くの他人を愛して身近な隣人を憎むのですか。」
そうだよね、世界平和のためにというのはむしろ容易い。そういう高邁な理想を述べて、例えば恋人にDVをはたらくなんてありがちなことだ。
ドストエフスキーの作品に出てくる人物は、簡単に「神」と口走る。それは、確かにドストエフスキーの心象の投影には違いないが、彼自身が神を信じていないことの告白なのではないか。
「俺は父を嫌悪している。あのノドボトケや、あの鼻や、あの目が憎くてたまらないのだ。」一人の女、グルーシェンカを奪い合う父と子だ。二人の間の緊迫感が高まっていく。きっと何かが起こる。作品の作り方がとっても上手だ。でも、いろんな家族があるなあ。
ドストエフスキーの作中人物はすべてドストエフスキーの分身だ。カラマーゾフ家の三男アリョーシャがまるで存在感がないのは、宗教に想いをめぐらすドストエフスキーあれば当然のことだ。彼は宗教家ではないね。そうではなくて、宗教とは何であるかを考える人だ。マッチをすれば暖かくなるだろうに、マッチの成分の分析に苦悩し煩悶しているのだ。苦しめば何とかなるかと思っているのか。
ドストエフスキーはアリョーシャのなかに自分の観念としての善をすべて注ぎ込んだが故に、アリョーシャの存在感は喪失してしまった。
大体、舞台回しに強い個性は似合わない。「失われたときを求めて」の、「わたし」だってそうだ。
「毒虫が毒虫をかみ殺すのだ」
カラマーゾフ家の長男ドミートリィが父のフョードルを殴りたおしたときに、次男のイヴァンがつぶやく言葉だ。無神論者のイヴァンに対してドストエフスキーは厳しい。神が存在しなければ何でも許されるといった論理を何度も展開するけれど、本気でそんなに単純に考えていたのかなあ。
長くなるから今日はここでちょん切りますね。次回続きを書きます。
平成20年4月4日金曜日
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