平成21年6月29日月曜日

Japanese characters

Japanese characters came from China about 1400 years ago.There are three types of Japanese characters.

The first type is close to the Chinese characters.(Type1)

It is natural because it was made from Chinese characters.The other two types were made by the first type.Generally speaking, Japanese characters are simpler than Chinese characters.

There are only 51 sounds in Japanese, so it is not difficult to pronounce.Chinese is much more difficult.Some people say Japanese sound like Spanish.


(Type2) It is easy to speak basic Japanese, but it is difficult to speak correct.

For example, male and female Japanese is a little bit different.

Type2 and 3 are a little like the English alphabet for they have only sounds and no meaning.Type2 and 3 are used to put Type1 together, and make one meaning.

(Type3) Type3 is mostly used to emphasize something or to write words from English or other Western languages.

平成21年6月8日月曜日

KABUKI

KABUKI is one of the Japanese traditional arts. All the actors are male. So, the male actors play the female parts.

KABUKI is popular because the scenery and costumes are beautiful.
Some plays are serious, even tragic, and others are comedies.

If you buy tickets for good seats for a whole program, it is expensive.

But it is cheap from the upper gallery.

平成21年5月20日水曜日

東北の春

4月の中旬、東北南部を回ってきました。もう、桜は無理だろうと思っていたのにまだ見ることができました。写真を一通り撮ってきました。でも、それをPCに移してからこのブログに貼り付けるのが面倒くさい。見てきた花に対応するようなフリーの画像があったので利用させていただくことにしました。次回からもそのようさ     せていただくことにします。これってすごく楽。
日本の原風景のようなところばかり見ました。田んぼ、菜の花、かなたに山々、桜、山桜、足元の畦道にはツクシンボと蛙の声。となりのトトロのような風景。
途中、歩いてくる二人の警官と会いました。休日でもあったから警備なのでしょう。男性警官と婦人警官。勤務なんですよね、でも二人ともとっても嬉しそう幸せそう。初々しいカップルそのものでした。きっとこの二人は結婚するなと思いました。後になって、二人で歩いた田舎道を懐かしく話し合うのかもしれません。

平成21年5月15日金曜日

靖国神社 山桜


桜の季節。千鳥ヶ淵の桜を見た後、靖国神社に寄りました。神社の東端にある大鳥居の脇にあるのがこの山桜です。来る人は、鳥居奥の正面に目が行きますから、この桜には気づかないのです。

いざさらばわれは御国の山桜

このように詠って爆弾とともに死んでいった特攻隊員は少なくとも2500名。特攻隊員というとまるで別世界の人のような気がしますけれど、今わたし達が日常見ている、明るく元気で好感のもてる青年たちそのものなのです。もしも生あって日本にいてくれたなら、どれだけ役に立ってくれたことか。さらに、この戦争でどれほど多くの人が死に、傷つかなければならなかったか。本当にもったいない。右も左もなく、わたしたちは等しくこれら父や母の犠牲に報いなければならないのだと思います。山桜は人に知られることもなく、そこにひっそりと咲いています。山紫水明で平和な国家をねがう象徴として。
その帰り道に見た飛行機雲。平和な空に、美しい飛行機雲。確かに私たちは本当に多くの人々の犠牲の上にたって、今日のこの平和を享受できているのだと感じました。 

平成21年5月14日木曜日

さくら


桜は美しい。咲きはじめから葉桜まで、いつでもいい。そんないくつかを、今年も見ることができました。勤務先近く。昼になると、チビちゃんを連れたお母さん、サラリーマンがこの季節を惜しむように出てきて、縁石のところに座ってお昼ごはんを食べています。

下の写真は、ときどき行くジムの前。いろいろな樹木があります。桜の枝には、「毛虫にご注意」の札がぶら下がっています。
桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿という言葉がありますが、桜はあまり形を作らないで、自由に伸ばすほうがいい木のようです。
われらに自由を・・・・かな。

平成21年2月6日金曜日

絵画館前


ニ月は年間を通して一番花のない月。リスが蓄えたどんぐりを食べてまどろむように、花のない季節は撮りためたものをアップして春に思いをはせることにします。

十一月下旬、明治神宮外苑の銀杏並木です。絵画館を望む位置はTVなどでも取りあげられていて有名です。ここの銀杏並木はどこが良いかというと、普通なら道路の両側といった具合に二列の植え込みなのですが、さらに歩道の両側にもあってつごう四列の銀杏並木なのです。さらに、高さが二十五メートルにも達していて、それが絵画館前の直線道路の端から端まで続いているわけで、晩秋の陽光の中で金色の葉が散っていくさまは圧巻です。
声もなく感嘆するのが一番ふさわしいのかもしれません。とはいえ、一陣の風によって輝く葉が嵐のように舞うと、ひときわ大きな歓声が上がるのですが。
この直線道路の終わるところの左右に自動車を使った焼き芋屋が一軒(?)ずつありました。一方はさつま芋をSMLと分けていて一ついくらです。反対側の店はグラムいくらという方式です。

一見するとどちらが高いのか安いのか判別できません。なるほど、ユダヤ商法ではないけれど共存共栄を図るための商売の知恵。うまいものです。

平成20年12月1日月曜日

伊勢エビと弓ヶ浜

暖かい所で伊勢エビが食べられるということで伊豆に行きました。伊豆半島を先の方まで行くにはつまるところ海沿いか、中央部の背骨をたどるしか無いのですが、今回は背骨コースです。東名を降りて修善寺に出ます。途中、河津のバガテル公園に寄りました。フランスの同名の公園を模した姉妹園とのことで、入り口にはフランス国旗が掲げられています。
陽が傾きかけていて、そんなとき日陰のバラは浮き上がるような印象になって、この花の特徴が強調されますね。変種も多いから作り出したらのめりこんでしまうでしょう。W.S.チャーチルも絵を描くことのほかに、確かバラ作りが好きだったのではないでしょうか。                             


伊豆半島の先端近くにあるのが弓ヶ浜。夏休みの始まる前に来ると人影も少なく、浜辺も荒れておらず、初夏の日差しに白砂が輝いて実にきれいなところです。浜の緩やかなカーブが気に入っています。この写真を撮っている後ろは松林になっています。朝、漁に出た船が戻ると村内放送が入ります。すると、新鮮な魚を求めて土地の人が集まります。観光地なのだけれども観光地ではない部分も見えて、そんなところも好きです。
 宿は国民休暇村。夕食はたっぷりで、伊勢エビのお造りが一匹ずつ付きます。甘みがあって堪能できますが、刺身として食べてしまうと係りの人はそれを下げてしまい、食事が終わるころ今度は味噌汁として出してくれます。
海老のダシがよく出ていて、大きなものなので殻の中身もたくさんあって楽しめます。後は露天風呂。北海道で吹雪の中の露天風呂を体験したことがありますが、天井が無いとどうしてこんなに開放感があるのでしょうか。朝食はバイキング。一人ひとりにノリ、納豆、干物とご飯をセットする方式はずいぶんと少数派になった気がします。バイキングの方が種類も多いし合理的ですね。どこに行ったときでも朝食のお粥はお気に入りです。毎日食べればいいじゃないかということなのですが、ウィークデーの自宅の朝食では忙しくて無理です。
I enjoyed smorgasbord in the morning  といったところでしょうか。

平成20年11月20日木曜日

黒部から室堂へ (その2)

室堂までは地上ケーブルと空中ケーブルを乗りつぎます。これこそ快晴と言うべき、将に快晴。陽の光で目を開けられないほどでした。高度を増していくと一気に眺望が開け、周囲から感嘆の声が上がります。昼近くでもあったので途中下車して、日陰をウロウロと探して昼食。



こういった場所はどこでもそうなのですが記念写真を後日送付する商いがあって、団体客は自分の運命も知らずに屠場につれてこられた鶏のように、華やいで整列します。カメラ係のお兄さんが一万回も繰り返したであろう香気の失せたジョークを感慨もなくしゃべくると、そのつど観光客がどっと沸く。見ていると、その落差のほうがよっぽどおかしい。室堂は混んでいました。なるほど、ここから日本の屋根に向かうのだなと山々を眺めて堪能して来ました。

黒部から室堂へ (その1)

 10月中旬、黒部峡谷と室堂、そして美女平へと抜けるコースをたどりました。快晴という言葉以外に形容のしようのない、まさに快晴でした。黒部ダムは有名なので写真でも何度も見ていましたが、風や陽の光の中で見るのは、いわば体で感じることなので全く別の印象を受けるものです。
 J.P.サルトルとS.ボーヴォワールが来日したときに霧雨の降る明治神宮を案内され、この美しさは体験しなければわからないと何度もつぶやいていたそうな。同じことだったのでしょう。

幸いにダムは放水されていました。水音がまったく聞こえないのは、眼前に見えるのにそれほど距離があるということで、規模の雄大さにうたれます。このダムの工事の困難さは広く喧伝されていますが、初期のころの記録映画では熊が一瞬にして激流に飲まれていくシーンがありました。人をまったく寄せつけない厳しい自然と、それにもかかわらず挑戦する人知との長い厳しい戦いは映画化されるだけのものを持っています。

  黒部ダムから室堂へ行くケーブルカーの始発駅まではバスです。それほどの距離ではないもののずっとトンネルの中を走ります。途中、大破砕帯を通ります。映画「黒部の太陽」で、突然、トンネル内に大出水するシーンがありましたがその場所です。
立山連峰の伏流水を抜きながら地層のない岩盤を薬剤で固め、命の上に命を塗り重ねるようにして数センチ単位で進んだであろう部分。バスではほんの短い時間なので想像力が必要なのだと強く思いました。
  

平成20年9月25日木曜日

My favorite walking course.



 お気に入りのウォーキングコースがあります。ただ、毎日いけるわけではありません。ここの江戸川土手まで家から2kmはあるから、Week Dayは来る時間がありません。休日で雨の降らない日。更に言うと、あまり陽射しの強くない日。だから、なかなかベストの日はありません。でもだからこそ、歩ける日は本当に嬉しい。 
 大きな河なので、野球場、サッカーグラウンドが次々に続きます。彼方の対岸はゴルフ場になっています。緩やかに湾曲していて、土手に立つと3km先まで見通せるのです。


  夕暮れ、ずっと下流のほうまで行くと白く塗られたボートがたくさん係留されていて、ユリカモメが群舞しています。空は茜色から淡い群青に染まっていく秋の雲。遠い記憶の中でいつか見たような大きな太陽が沈んでいきます。混じりけのない朱色を見ることができます。
 これだけでも偉大なる自然なのに、あの朱色とは巨大なガス体で、あの光も中心部の核融合反応に由来していると思えば、自分が今まさに宇宙の神秘に対峙しているという思いに打たれます。
 そして家々に灯がともり、勤勉な主婦が夕餉の支度をしているであろう生活の営みが感じられる時、宗教的でもないのに宗教的な気持ちにならざるを得ません。
人々に歓びを、そして世界に平和を。

平成20年9月18日木曜日

ランニングマシーン

 オリンピック選手は自分の体をコントロールするプロで、それとは及びもつかないことですが面白い体験をしています。
近くにジムがあって、時々行きます。ストレッチを十分にして、十分に時間をかけすぎるからウォームアップを過ぎてクールダウンになってしまいます。だから次は自転車に10分ほど乗って体を温めてからウェイトトレーニングに入ります。マシンはあれこれあるから、使えるところをまわって、体の上から下まで一通り。上腕二頭筋だの脊柱起立筋だの、理屈が先にたちすぎるのは僕の生来の悪弊です。このあとランニングマシンというのがルーティンになっています。ランニングは一部で、歩きつづける方が多いです。シャワーもあるから結構な爽快感と共に帰るわけです。
 ジムのほかに野外を歩くのも好きで、お気に入りのコースがあります。利根川の大きな支流の広々とした緑の河原を見ながら土手に沿って往復6~8キロの行程です。歩いたり走ったりします。ランニングマシンでは8キロは走れません。走ったとしてもまるでネズミになったようでもあり苦痛です。
 ところが広々した河原を見ながら歩くと、苦もなくこなしてしまいます。さやさやと鳴る草の上を歩くと、汗でびっしょりになるのが嬉しいという気になります。
 勿論、自然の中にシャワーなんてありませんけれど、風に吹かれて体が乾くのが爽快ですね。結局、どうしようと人工的な環境は自然の大きさにはかなわないのです。
 そんなこともあって、近頃は野外のウォーキングからとても健康的な楽しみを見出しています。歩いていると、同好の士が多いことにも気づきました。同じ楽しみを見出しているのでしょうね。

平成20年8月25日月曜日

演劇の魅力 仲代達矢さんの意見

 何人か、演劇にのめりこむ人が身近に居ました。みんな、プロにはならなかったのですが、そのように人をひきつける何物かが何であるのかは傍観者である私にも興味がありました。役者は三日やったらやめられない、という言葉は何を意味しているのだろう? 仲代達矢さんが自身の経験に基づいて語った文章がありました。以下がそれです。

「普通の人とは違う人間の野性を生きる」 
 これは、亡き妻宮崎恭子が若い俳優たちに語りかけた言葉で、「俳優の仕事は、人間の野性、あるいは本能を描くこと。それに知が絡み合って人間を演じていく」、そういう意味です。私たちの日々の営みは、建前とか社会性でつづられていくものだし、それが秩序を作っていくのですが、人間には本音があり本能がある。深くて複雑な人間を見つめながら、こんな生き方もあると表現していくのが俳優の仕事だと思います。 

 新劇の世界は、一に作者、二に演出家、三番目にやっと俳優という位置づけになっているような気がしていますが、どんなにすぐれた脚本があっても、それを俳優が肉体化しなければとても成立しません。ですから、それに応えられるような格の高い演技が要求されるでしょう。

 私は映画の仕事にも多く携わっていますが、ここでも監督などが、作ろうとする一本の作品のことを考えてオーディションをし、役柄に沿う人を選ぶ。昨日まで役者としての経験もない素人でも任に合えば使い、あとは放り捨てるような現状です。それはプロとアマチュアの差を認めていないということです。 私が考える役者というのは、どんな商売でもそうであるように、何らかの修業を経て、俳優として、また人間としての意識を持ち、お客さんを感動させ、人間とは何か、人間の命とはどういうものかを常に自分に問い、それを表現する志と技を磨いていく存在なのです。

 若い頃の私は、とにかくうまくなりたいと思って世界中の演劇書を読みあさりましたが、なかなか俳優の感覚にピンとくるような技術指導書はありませんでした。 ある日寄席を兄に行った時のことです。紙切り芸の名人、初代林家正楽さんの舞台で「あ、これだ」とひらめくものがありました。正楽さんはお客さんの目の前で和紙をはさみで切っていく。仕上がったら扇子を持ってパパーツとあおぐのですが、和紙が本物の蝶のように生き生きと舞うのです。ここには俳優という商売の、「表現の秘」があると強く感じました。 

 また、俳優の魅力とは何かについても懸命に考えました。その人の魅力にお客さんはついてくる。その事実は分かっていても、身につける方法はどのような指導書にも書かれていないのですが、30歳の頃にシャンソン歌手イブ・モンタンの歌を聞いたことがあります。衣装は黒いシャツを着ているだけ。しかし「枯葉」を歌い始めた瞬間にピンとくる魅力を感じたのです。口では説明できない、どうすれば手に入るのか見当もつかない。でも、その魅力というものがなければ人を引きつけることができないと痛感しました。

 それは今でも分からないし、明確に人に教えることも難しいままなのです。 つまり俳優は自分で、日々人間へのアンテナを張り続けていくしかないのですね。でも、簡単ではないからこそ面白いのではないですか

平成20年7月23日水曜日

秋葉原の通り魔事件

 秋葉原の無差別差殺傷事件について、京都大学の加藤尚武先生が書かれた記事が目につきました。どこか根深いところで言い当てていると思われました。以下転載です。

秋葉原事件と高校教育の陥穽
《自尊心を欠く犯罪》 
6月8日の通り魔殺人事件は7人の命を奪い、10人の負傷者を出すという悲惨な結果を生み出した。「誰でもいいから殺す」という無差別殺人の場合、動機の解明や犯行時の精神状態を明らかにして刑事事件としての立証をしても、そもそも刑事罰の有効性が成り立たないので、犯罪の一般予防という観点から見ると刑罰以外の対処をも視野に入れなくてはならない。
 犯人(25歳)の生い立ちや性格についても十分な調査をする必要があるが、実際には、生い立ちを調べることは両親や兄弟のプライバシー保護と抵触するし、そのような調査をする権限をもつ公的な機関が存在しない。 非行をする少年や若い犯罪者について、規範やルールの認識が欠けているという判断を下す人が多いが、たいていの場合非行や犯罪には「悪いことだと分かっているからこそ、あえて行う」という挑戦的態度が見られる。 秋葉原の通り魔殺人の犯人に関しても、世間から激しい非難を浴びるような行為をわざと選んだように思われる。彼の動機に、親に対する復讐(ふくしゅう)という要素があったと指摘する人が多い。ほとんど自殺に限りなく近い形で、自分を破滅させるという行為には、何よりもまず「自分を大切に思う気持ち」(自己評価、自尊心)が欠けている。若い犯罪者に欠けているのは、たいていの場合、規範意識ではなくて、自尊心である。

 ≪共同選果場化した現場≫ 
日本の県立高校は、工業・農業・商業という実業高校は統廃合によって、普通制高校に変わっていく、男女別学が男女共学に変わっていくという過程を通じて、特色のはっきり分からない普通制高等学校が並立しているという状況になっている。 学校の違いは、入試の点数によって、明確に分かれる。AクラスからEクラスぐらいまでに分かれる。エリートから外れた高校に通う者が3年間に身につけるものは、まずEクラスとか、Dクラスとかのレッテルを張られているという屈辱感に耐えることである。 Eクラスとか、Dクラスの高校では、雨の日の朝は生徒の表情が少し明るいといわれる。社会的なレッテルをあらわす制服をレインコートで包むことが許されるからだ。 高等学校の共同選果場体制化は、少子化による学校統廃合と受験の圧力という教育に固有の事情から生まれていったのだが、それが現在では、若者の就職先が、正規雇用型と派遣型に分かれるという社会的な変化にぴったりはめ込まれたようになっている。 エリート校の受験体制に乗り込むよりほかに、自分の努力によって自分の未来を切り開く余地が実際にほとんど存在しないことに多くの若者は気づいている。
 エリート校に進めば、そこは大学受験のためのもっとも効率のよい修練場である。たとえば歴史の教科書でカントという人物名を見たら、カントについての3行程度の記述を完全に記憶しなくてはならない。カントの著作を読んでみるというような無駄は許されない。彼らが大学に入ってきたとき、「受験に必要な知識」という型にはまった知識以外には、脳の中には何もない状態になっている。

≪落ちてはならぬコンベヤー≫ 
エリート校の出身者が、大学院に進むまでに受験後遺症を払拭(ふっしょく)して、のびのびとした独創的な発想力を身につけるのは難しい。秀才ではあるが、研究者としては二流以下の若者が大学院にあふれかえっている。 秋葉原の殺人犯は、絶対に落ちてはならないコンベヤーベルトから落ちたのだ。そして彼の攻撃的な精神にはたえられないDクラス、Eクラスの屈辱を背負って生きる以外に自分の可能性がないことに直面していた。彼の犯行は、共同選果場体制から、たまたま落ちこぼれたいびつな林檎(りんご)の悲劇だったのではないだろうか。 高等学校の共同選果場体制は、日本の若者から気力と創造力を奪っている。高等学校は、自分を大事にするという気持ちを他人と共有し合うこと、人間としての深さ、他人に対処する姿勢を芸術や文化の深さに触れることで養うなど、人間としての成長の期間でなければならないのに、選別のためのたんなるコンベヤーベルトと化している。 
 その責任の一端は、大学の側が生み出してきた入試体制そのものにある。現行の入試では1点でも多くの点数をとれば有利になる。一定以上の点数をとれば合格の必要条件を満たすという方式も検討すべきだ。 将来の日本が、人材の豊かさを誇ることができるようにするためには、高等学校の共同選果場体制を解消するという課題に取り組まなくてはならない。

平成20年7月8日火曜日

桐野夏生さん

作家である桐野夏生さんが、自分の仕事と生き方について書いた記事を見つけました。自分の人生を納得のいく形で生きるためには、時と所が変わっても各自が経なければならない過程なのかもしれません。抜粋です。(2008年7月6日、朝日新聞)

 私たちの世代の女性は、今からは想像もできないほどの就職難に直面していました。しかも大学を出たのは石油ショックの翌年。友人のほとんどは、就職ができても結婚を機に辞め、家庭の主婦になっています。私自身は子供の頃から、いろいろな問題を考えるのが好きで、いずれは新聞記者になりたい、などと漠然と思っていましたが、女性の私には高すぎるハードルでした。 大学時代はベトナム戦争もあり、全共闘運動、ヒッピームーブメントの盛んな頃でしたから、「この世の中はおかしい」と強く感じていました。就職することが、現実に負けるような気がしましたし、権力におもねることではないか、とも考えていたのです。
 大学を出て、いくつか小さな会社に勤めましたが、将来の展望も持てないままに辞めてしまい、不満を抱えつつも、自分はアウトサイダーになるしかないと決心しました。 出版社の試験も受けたことがあります。でも女性誌枠の編集募集で、一般教養の試験ではなく、洋裁や料理の知識が求められた時代です。私は家庭科音痴だったので、理不尽だと憤慨もしましたが仕方ない(笑い)。書くのが好きだったのでライターの仕事もやりました。でも、膨らませて、はら話を作るのは得意でも、要点を抽出するのが意外と苦手で、あまり向いていなかったように思います。 しかし、シナリオ教室に通うようになった後、最初の小説を書いた時に、とても驚いたものです。楽しいし、いくらでもアイデアが湧く。自由に虚構を作る方が向いていることは、自分でも意外でした。自分が作り出した世界に酔って放心できるし、ライターズハイも体験して、これは天職だ、自分の仕事にしていきたい、と思ったのです。経済的に自立できるのはまだずっと先でしたけど、ともかく書きたいことを書き、自分自身が楽しく酔える仕事をしようと決めました。
 就職で挫折し、社会から要らないと弾かれた気分が強かったがゆえに、自分で将来を手探りしなくてはならなかったことが、自分を突き詰めることになったのだと思います。

平成20年5月10日土曜日

夭折の詩人 立原道造


立原道造記念館。
ここの存在は知っていたのですが初めて来ました。
2Fと3Fが展示室になっていて、実際に立原道造が使っていた机がありました。
他の記念館などでも同じ経験をしたことなのですが、主を失い長く使われなくなると全てが小さく質素に感じられます。何であっても、優れた作品を生み出すのにマホガニーの大テーブルはいらないんですね。

立原は洋燈が好きだったということで、愛用のそれを持っている写真もありました。左の洋燈です。夕暮れ、洋燈をともしてその下で安らいだら、それはもうそのまま立原道造の世界になりますね。

ずっと前の夏休みのこと。
中央図書館の古色蒼然としたいかめしい石造り。夏休みなのに、学生たちが半分近くも席を埋めて勉強している。重厚であったであろう内装も、時を経てお粗末さだけが浮きあがっていた。きしむ椅子、前席と区切るための衝立。冷房がないものだから横に大きな扇風機がいくつも並び、生温かい風を送っていた。開け放した窓からは蝉しぐれ。
僕にはすることがきっとたくさんあったはずだ。でもなぜか、立原や文芸評論や抒情詩など、自分のフィールドとはまるで関係のないものばかりを読んでいた。夕暮れ近くに外に出ると、少し低地になったグラウンドの周りに大学や付属の建物が見え、空気の汚い都会のことだ、白茶けた空に入道雲が何層にも重なって見えた。毎日そのようにしてすごした夏が、今でも鮮明に記憶に残っている。

立原のノートがありました。
小学校時代から文字を正確に書く少年だったんですね。
凸レンズの作図もありました。焦点の外側にロウソクを置いて、その倒立実像の図です。炎の先端からだけではなく、ロウソクの肩の部分からも光線を引いています。当時はそのような教科書だったのか、あるいは立原だけがそのようにしたものか分かりませんが。
赤いセロファンを通った光はどうして赤いのかという質問に対する立原の答が書いてあって、他の波長の光を通さないからだときちんと表現しています。
立原というと詩と結びつくけれど、理系の人ですものね。立原の使ったカラスグチなどの製図器具もありましたけれど、今ならコンピュータとCADで自在に描くのでしょうね。立原が長命でこんなツールを使ったなら、そして丹下健三さんと競いあったならなどと想像しました。

立原の文章。
「僕のなかには優しい小鳥が住んでゐます。ピンク色の微笑や草よりもつよいにほひのする髪の毛を持ってゐて、かの女は僕によいものを与へ、またよいものを奪ひ去って行きます。」 彼と人生を託すはずだった人、水戸部アサイ。二人だけで交わした婚約というのも彼の詩にふさわしい。立原の死後、十九才のアサイは立原をめぐる知己達のもとから姿を消す。後に信濃追分の駅に佇むアサイの姿が見られたという。

人は、彼女が彼の思い出の中に生きていくことを望むのかもしれない。でもそれはこちらの勝手な思いであって、生身の人へのいたわりに欠けている。一冊の恋愛小説を残したからといって、ヒーローやヒロインの実際の人生がそこで終るわけではない。僕たちはその美しい作品に感謝し、そして彼らの幸せを望めばいいのだと思う。